「娘が死んだとき、ワシは踊った」サハリンで生きる残留日本人の告白

8月15日に戦争が終わらなかった島
井戸 まさえ プロフィール

この40万人の引き揚げは戦局の転換に大きく影響されながら、8月13日から、宗谷海峡がソ連軍によって封鎖される8月25日直前までの間、樺太庁などで事前決定されていた「樺太緊急疎開要綱」に基づき、北海道への疎開が実施された。

その内容は次の通りである。

①緊急疎開は樺太庁官を最高責任者にし、必要な鉄道、船舶をその指揮下に入れる。
②このため三者は内密に、軍、官、民の船舶関係者と連絡、万一の場合できるだけ多くの船舶を樺太に回航できるようにしておく。
③乗船、乗車は長官の定めるところにより、軍、官、民同時で同権とする。
④人心の動揺を避けるため、この構想は外部にもらさない、極秘とする。

ただ、この緊急疎開対策はあくまで米軍の樺太上陸に備えたもの。ソ連の参戦はまさに青天の霹靂だった。

樺太庁は10日に緊急疎開の方針を確認すると、疎開の開始を13日とし、海軍艦艇はじめ、小型船まであらゆる船舶が動員されて、大泊町、本斗町が送出の中心地になった。

 

緊急疎開の対象者は13歳以下の男女及び14歳以上の婦女子とされたが、この時、相当数の老病人、傷痍軍人や引率者も引き揚げたといわれている。

しかしこの際の引き揚げは、命令伝達の不徹底のため全市町村の3分の1の疎開は未実施となり、また豊原市からの1万人に及ぶ疎開者は「官公吏警察関係の家族の輸送が圧倒的に良好で一般人の疎開は非常に難儀であった」と、日本帝国の他地域での引き揚げでも見られたような官民の「不公平」性も存在した。

そうした中で、戦後最大の悲劇とも言われる三船殉難事件が起る。日本の降伏文書への調印予告、および軍隊への停戦命令布告後の1945年8月22日、北海道留萌沖の海上で日本の引揚船3隻(小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸)がソ連軍の潜水艦からの攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して1708名が犠牲となったのだ。

戦争終結後、1946年春以降にはサハリンと北朝鮮、大連のソ連占領地区からの日本人引き揚げが米ソ間で協議されるようになる。

11月27日には「引揚に関する米ソ暫定協定」、12月19日には、「在ソ日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定」が締結され、サハリンと千島地区からの引き揚げが開始し、1949年7月の第五次引き揚げまでに29万2590人が引き揚げた。

ちなみに日本において戦争による民間人の引き揚げのうち、南樺太が最後であった。

〔PHOTO〕gettyimages

引き揚げの実態〜密航には値段設定

引き揚げには「密航」というルートもあった。日本人住民の大多数はなんとかして日本にいる家族、親戚と連絡をつけ、不法に国境を越えようとした。

この密航はサハリンの海岸線から搭載ボートにのせて、北海道から来た小型船に乗せる、といったもので、サハリンから小型船までは20円。小型船から北海道までは何と1000円だったという。お金があれば、その手段がとれたのである。

一方で、戦時捕虜と一般市民の帰国を実現はソ連邦閣僚会議に全権がゆだねられ、祖国に出発しようとする捕虜、一般市民の「集合」「登録」「引揚者収容所の管理」等が行なわれた。

この費用は日本政府が支払うことが前提条件とされ、集合収容所、トランジット用収容所が設置された。

真岡港に作られたこうした収容所に、引き揚げ希望者は引き揚げ船の乗船72時間前に到着し、待機していなければならなかった。