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「娘が死んだとき、ワシは踊った」サハリンで生きる残留日本人の告白

8月15日に戦争が終わらなかった島

8月15日以降も戦闘が続いていた

8月15日、多くの日本人はこの日で戦争が終わったと思っているだろう。

ところがその後も戦闘が続いていたところがある。

樺太。北海道の最北端、宗谷岬の北、約43キロに位置する島だ。

日本がポツダム宣言を受諾した8月15日以降も日ソ不可侵条約を破棄して抗日宣戦に加わったソビエト連邦の攻撃を受け各地で激しい地上戦が続き、多くの一般市民が戦闘に巻き込まれた。

同月25日には樺太全島がソビエト連邦の支配下となり、大泊占領をもってようやく戦争は終わった。

本土の終戦から10日間も自衛戦闘を命じられた日本軍は闘い続けたのである。

樺太はサハリン州として現在に至るまでロシアが事実上の統治国となっている。

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何度も国境線が変わり…

樺太の国境線はこれまでに幾度も変わっている。

江戸時代、幕府直轄領として蝦夷地と呼ばれていたこの地は、1855年(安政元年)にロシアと交わした日露和親条約の時点では日露両国民混在の土地とされていた。

しかし1875年の千島樺太交換条約で、明治政府が樺太を放棄したため、いったんは全島がロシア領となる。

その後、日露戦争で戦勝国となった日本が、1905年のポーツマス条約により北緯50度以南を再び領有することになり、以後、第二次世界大戦敗戦までの約40年間、日本による樺太各地の開拓が進められた。

樺太は朝鮮、台湾と異なり、住民のおよそ9割を内地人が締めていた関係から1924年に植民地では唯一、内地の戸籍法が施行され、1943年から内地に編入された。

冬にはマイナス30度にもなる地域ではあるが、豊かな水産資源や森林資源を持つ樺太の活用は、当時の日本にとっては重要で、日本政府は稲作の北限をあげることや、タンパク源になるトナカイ等の養殖や品種改良が可能かなどの実験などを行なっていた。

 

当時の豊原市(現ユジノサハリンスク市)にはドーム型の屋根を付した鉄筋3階建ての「江戸っ子百貨店」などがあり、驚くほど豊かだった。入植者を募集するために撮られた写真を見れば「宝の島」と呼ばれていたことに誰もが納得するであろう。

樺太には主に北海道、富山等から集団で日本人が入植した。人口が増えるとともに各地に王子製紙の工場なども作られ、巨大な煙突をシンボルにしたパルプ業や炭鉱業、水産業などが発展した。豊原、真岡、大泊など島内各地では美しい碁盤状の街並みが計画的に形成されていった。

樺太に対する施政開始直後の1907年には約2万人であった島内人口は、1941年には40万人に達する。

樺太神社には狛犬が鎮座し、天皇と皇后の御真影と教育勅語を安置した奉安殿が各地の学校に建てられた。