一揆はほんとうに「進歩的な勢力」が担っていたのか?

気鋭の歴史学者が戦後歴史学に挑む
呉座 勇一 プロフィール

このように見ていくと、土一揆が「進歩的」な勢力と言えるかどうか、疑問に思えてくる。土一揆の襲来が京都町衆の自治を促したのだから、間接的に歴史の発展に役立っている、と主張できなくはない。だが、それはやはり強弁だろう。この論法が成り立つなら、盗賊や悪党も「進歩的」な勢力ということになってしまう。

 

太平天国の乱と湘軍

興味深いことに、こうした構図は中国近代史にも見られる。清朝末期、拝上帝教というキリスト教系の新興宗教を興した洪秀全(こうしゅうぜん)は多数の信者を率いて挙兵、天王と号して太平天国を建国した。この反乱を太平天国の乱という。

士気旺盛な太平天国軍との戦いで、腐敗弱体化していた清朝正規軍は敗北を重ねた。このため清朝は全国の郷紳(きょうしん。地方有力者)に郷勇(きょうゆう)という義勇軍の編成を命じた。

もともと郷紳たちは盗賊などから生命と財産を守るために、団練という自警団を組織していた。清朝は、この団練を基盤として郷紳たちに郷勇を編成させ、太平天国と戦わせようとしたのである。

郷勇の中で最大最強の存在が、湖南省湘郷の郷紳である曾国藩(そうこくはん)が創設した湘軍(しょうぐん)だった。曾国藩は地元で儒教を学ぶ読書人や科挙受験生などのインテリを幹部に据え、質実剛健な農民を集めて指揮下に入れた。湘軍は最終的には数十万の大軍へと成長し、太平天国の乱鎮圧の立役者となった。

さて、階級闘争史観に従えば、太平天国の乱は農民闘争、いわば中国版一揆ということになる。太平天国は土地を農民に平等に配分するという共産主義的な理念を持っていたので、戦後歴史学では非常に高く評価された。

だが、これはタテマエにすぎず、太平天国の支配地域で、土地の再分配が実施されることはなかった。しかも支配地域の男性は兵士として徴発され清朝との戦いに駆り出された。大多数の民衆にとって太平天国は信仰を強制し財産を没収する迷惑な侵略者にすぎず、ゆえに郷土を守るために湘軍などの郷勇に身を投じる者が少なくなかったのである。

乱鎮圧後、曾国藩は湘軍を解散する。だが湘軍に倣って李鴻章(りこうしょう)が創設した淮軍(わいぐん)はその後も存続して洋式軍隊化を進め、日清戦争では清朝軍の主力を担った。この戦争で淮軍は壊滅的な打撃を受けて解散するが、李鴻章の後継者である袁世凱(えんせいがい)は北洋軍閥を形成し、やがて清朝を滅亡へと追い込む。

李鴻章 photo by Getty Images

このように中国の歴史を大きく動かしたのは、太平天国というより、太平天国から郷土を防衛するために結成された郷勇である。戦前の東洋史の泰斗である内藤湖南(ないとうこなん)も、袁世凱死後の中国の混乱を論じた『新支那論』(1924年)で、「曾国藩の郷団自衛軍が発展して、支那の大部分にわたる騒乱を鎮定した」例を引いて、郷団自治の発展に中国近代化の一縷の望みを託している。

以上見てきたように、一揆は必ずしも「進歩的」な勢力ではない。民衆が一揆を結び権力に立ち向かったという階級闘争史観は、歴史的事実としばしば矛盾する。戦乱と民衆の関係は、一筋縄ではいかない複雑なものなのだ。筆者も参加した『戦乱と民衆』(講談社現代新書)では、この問題を掘り下げて論じたつもりなので、興味を持たれたかたはご一読いただきたい。