一揆はほんとうに「進歩的な勢力」が担っていたのか?

気鋭の歴史学者が戦後歴史学に挑む
呉座 勇一 プロフィール

土一揆は京都に行って何をするのか。一般には、室町幕府に徳政令(借金棒引き令)の発布を要求するためと言われている。室町幕府は土倉・酒屋といった高利貸しから土倉役・酒屋役という営業税を徴収していた。この土倉・酒屋役は幕府の重要な財源だったので、幕府は土倉・酒屋を保護していた。土一揆は、高利貸しの味方をする幕府の暴政に反発して蜂起しているから、まさに反権力の農民闘争である。と、言いたくなる。

けれども土一揆の行動は、幕府に徳政令を要求したり幕府軍と戦ったりすることに限定されない。彼らは土倉・酒屋を襲撃し、略奪・放火を行う。暴利を貪る高利貸しがどうなろうと自業自得だと思うかもしれないが、土一揆はしばしば暴徒化する。そして土倉・酒屋以外の家屋に対しても略奪・放火を行うのである。

加えて、土一揆の構成にも目を向ける必要がある。かつては土一揆の基盤は村落結合であると考えられてきた。村民たちが名主ら村の指導者に率いられて村ぐるみで土一揆に参加するというのである。つまり、まず村落単位の農民闘争があり、それから多数の村落が連合した大規模・広域的な農民闘争である土一揆へと発展する、という図式である。

しかし最近の研究では上記の見解は否定されつつある。村ぐるみで土一揆に参加する事例は乏しく、むしろ村から飛び出して個人参加する方が一般的だったというのである。村での暮らしが成り立たなくなった食いつめ者、村に居場所を失った鼻つまみ者が少なからず土一揆に参加していたと考えられる。要は流民であり、寄せ集めであるがゆえに土一揆は暴徒化しやすかった。

 

町衆の自治はなぜ生まれたか

よって京都にやってくる土一揆は、京都住民にとっては甚だ迷惑な存在である。土一揆が暴徒化した場合、盗賊と大差ない。土一揆は必ずしも反権力の集団ではなく、民衆の敵になることもあるのだ。

応仁の乱で室町幕府の権力が衰えると、その落ち込みを埋めるかのように、京都では町衆(富裕住民)を中核とした自治が発達していく。この住民自治も戦後歴史学においては「民衆の政治的成長」として高く評価されてきた。

 
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ところが戦国時代に京都で町衆の自治が発達した背景には、自衛意識の高まりがあった。外部勢力が京都に侵攻し、略奪・放火を行うことを防ぐには、住民による防衛態勢の構築が必要である。一致団結して組織的な防衛を行う中で町衆の自治は進展していったのであり、また自治を基盤に防衛態勢は強化された。

そして重要なのは、戦国史研究者の神田千里氏が近年指摘したように、京都住民にとっての「外敵」の中に土一揆も含まれるという事実である。戦国時代の史料には、京都住民が土一揆を撃退した事例が散見される。

戦後歴史学は土一揆も町衆も共に高く評価したが、両者は手を取り合って権力に抵抗したわけではない。むしろ両者は敵対関係にあったのである。