借金をチャラに…室町時代の人々が怯えた「徳政」とは何だったのか

もともとは美徳とされていたなんて…
早島 大祐 プロフィール

徳政という「脅威」

ではなぜ、16世紀末の滋賀県東部の一地域では、このような状況が生じていたのだろうか。

まず気づかされるのは、ここに純粋な借用書が含まれていない点である。

これにはもちろん理由があって、ある懸念から、340万円の額面を2つに割って売券と預状の体裁にして、金銭貸借が行われていたのである。

では、「ある懸念」とは何か。この問題を解く鍵は、3通目の文書にある。

先に名称だけ紹介した徳政落居状は、その名の通り、徳政を契機として将来、発生するおそれのある、借金帳消しという事態を抑制する目的で作成されたものである。

具体的に言うと、徳政令が発令されると、土地を売り払った人々が売った土地の返還を要求する事案が当時は頻発していた。このような事態を受けて、土地を買った側は買いとった額の1割から2割程度を追加で支払うことにより、売買を確定させていた。

この慣行が定着して、16世紀中葉までには追加額の支払いが事前になされるようになり、その支払いを証明する証文も前もって作成されるしきたりになっていた。それがこの徳政落居状と呼ばれる文書だったのだ。

この文書が象徴するように、16世紀末という時期に人々は、徳政という「脅威」にさらされていた。貸借が売券の体裁で行われたのも、徳政は借金をもっぱら対象とするもので、売買はその適用外とされるという、当時の常識をついた徳政逃れだった。

2通目で預状が作成されたのも、土地売却状によって貸借を行ったことが発覚した際の、さらなる予防策だった。お金の貸し借りではなく、ただ預けただけだから徳政令の対象とはならない、そう言い訳するためだったのだ。

 

手間や負担ばかりが増える

現代人の感覚からすれば、預状だけでも対策としては十分のようにも思えるが、500年前の当事者たちはそうは考えなかった。これらの対策でも安心できなかったから、さらに用心を重ねて、徳政落居状までもが作成されたわけである。

現代でも公的機関などとやりとりをすると、マイナンバーカードの提示に加え、本人確認のために免許証なども持参した上に、書類に判子も捺さねばならないなど手続きの多さに困惑することが多い。

しかし500年前のある地域では、見知った仲間内でのお金の貸し借りですら、ここまでの手間をかけることが必要だった。のみならず、共同体内部での顔の見える関係、信頼できる間柄でのやりとりだった分だけ心理的な意味も含めての負担はさらに重くのしかかっていたに相違ない。

このように徳政のリスクにより手間や負担ばかりが増え、親しい間柄であってでさえ、取引の潤滑性は失われていたのである。経済活動が大きく阻害されたことは言うまでもない。