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石原さとみが「女子力の権化」からフェミニストになった瞬間

『アンナチュラル』で革命が起きた

前編では、石原さとみの役柄が、日本の女子の生きづらさを体現してきたこと、その役柄が「第一形態」から「第三形態」まで進化してきたことを指摘した。「第一形態」の頃は、仕事上での能力は問われず、健気で明るく、周りから愛され、男性から選ばれることに重きがおかれてきた。「第二形態」期の役は、キャリアや能力は得たものの、その上に「女子力」を求められ、プレッシャーに苦しんでいた。後編は、第二形態期の代表作『失恋ショコラティエ』から振り返っていく。

 

「女子力の権化」は疲れ切っていた

2014年のフジテレビの月9『失恋ショコラティエ』は、ヒロインのサエコ(石原)の恋愛テクニックの巧妙さ、とことんまでシビアな恋愛観を描き、話題になった。

サエコは、学生時代から学年一のイケメンを次々と彼氏にしてきたツワモノ、恋愛強者だ。そんなサエコに15歳のときから片思いしているのが松本潤演じる爽太である。年齢はサエコの1歳年下だ。

しかしサエコは、結婚願望を抱いていた26歳のとき、年上の雑誌編集者を夫に選ぶ。結婚には派手さよりも堅実さを求めたのだ。

フジテレビのサイトより(現在は削除されています)

だが、次に爽太がサエコの目の前に現れたとき、彼は頼りない年下の男の子ではなく、フランス帰りのイケメンショコラティエへと変貌を遂げていた。一度は堅実な年上男性との結婚という保守的な道を選んだサエコだが、その生活に満足するような性格ではなかったのだろう、爽太の気持ちを自分の方に向けようと、かつて使っていたテクニック(女子力)を総動員するようになる……。

確認しておくと、「第二形態」の石原が演じる女性たちは、キャリアや能力を手に入れていたのだった。しかし同時に、第一形態のときと同様、愛嬌をも求められ、そのプレッシャーに苦しんでいた。

サエコの場合も、主婦として暮らしてはいるものの、能力の高さはきちんと描かれている。モテに対して異様なまでに研究熱心で、実践でも負け知らずだ。何に対しても全力で臨めば結果が出せる能力の持ち主であることが示唆される。爽太が作るチョコに対して的確な助言ができるシーンからも、そうした能力の高さがうかがえる。

では、なぜサエコは雑誌編集者と結婚し、一度は主婦に収まったのだろう。

2018年現在でこそ、恋愛が女性を救済するものとは思われなくなっているが、2000年代は、恋愛こそが女性を勝ち組にするものだという考えが根強かった。当時の女性誌に「愛され」や「モテ」という言葉が多様され、「彼ママ」の目を気にしたファッション特集が組まれていたことからもそれがわかる。

男性に愛されることによって一発逆転する--フィクションやファッション誌などが女性たちこぞってそんな夢を見させていたのが、2010年前後の風潮であった。それが描かれていたのが、石原さとみの第一形態だったことは前編で見た通りだ。

サエコは、女性に「仕事も女子力も」が求められた第二形態の時代に、そうした風潮についていけず「揺り戻し」として現れた女性と言えるだろう。いわば、第一形態の幸せにしがみついた亡霊でもある。

加えて、サエコは頑張り屋だ。キャリアと同様、恋愛でも頑張ってしまう。結果を出そうと考える。サエコは恋愛を「勝ち組」になるための勝負と考え夢中になってしまったため、「勝ち組」になった後も人生が続くと言うことには、気づいていなかったのではないだろうか。

そこには、サエコの母親世代の呪縛がある。

実際、サエコの母親は、サエコが夫に不満を抱いていても、稼ぎがあり義父母の世話の必要もない最高の夫の機嫌をとるのが妻の仕事であると諭すシーンすらある。

サエコの母親世代の女性は、外に出て十分なキャリアを得ることは難しかった。それゆえ、生活レベルで現状を維持してくれる旦那がいることは、それだけで安泰の印であると思われていた。

しかし、今は完全に賃金格差がなくなったわけではないが、女性にも結婚生活を放棄しても、働く場は見つけられる。

そんな社会構造の変化を無視して、母親世代の「幸せ」を信じすぎた結果、サエコはちぐはぐな状態に陥ってしまった。保守的な結婚をゴールに決めたばかりに、ミーハーで好奇心が強く、恋愛であれ何であれアグレッシブに突き進む本来の性質を押し殺してしまった。「将来を見越して保守的に生きるほうが、女の子は幸せになれる」という教えを真に受けたばかりに、自分で自分を抑圧しているのだ。

『失恋ショコラティエ』は漫画原作も人気を博した

さらに物語の終盤でサエコは気づいてしまう。モテのテクニックで男性たちの気を引いたとしても、彼らが見ているのは、女子力で作り込み「擬態」した自分でしかないのだと。

さらに、夫だけではなく、夫との平凡な毎日から救ってくれると思っていた爽太ですら、独り善がりに、彼女を創作のためのミューズと見ているという残酷な現実にも気づいてしまった。「女子力」を突き詰めても、そこには虚しさが待っている可能性のほうが高いのだ、と。

2000年代の女性誌は「愛され」や「モテ」の文字が誌面を飾り、それはやがて「女子力」と翻訳された。2010年代になっても女性は「女子力」を駆使し、仕事でも恋愛でも勝たなければいけないというメッセージが発信し続けられていた。

しかし、そうしたなか、次第に「女子力疲れ」を訴える女性も現れ始めていた。サエコも「女子力」さえあれば、生存できると信じていた人物であるが、その実、そうした状況にとても疲れていたのではないか。今『失恋ショコラティエ』を見ると、改めてそう思う。