飲めばモラルが向上するクスリ「道徳ピル」をご存じか

それは希望か、ディストピアの始まりか
堀内 進之介 プロフィール

認知能力を高める「スマート・ドラッグ」もある

実は、道徳ピルのなかには、これまで見てきた協調性や共感を増進させるのとは別のタイプのクスリもある。知性を改善するクスリだ。「スマート・ドラッグ」とも呼ばれる。

一般に、集中力や注意力、記憶力などの認知機能を増進させる効果を持つ薬物を指す。その代表格がリタリン(物質名:メチルフェニデート)だ。

リタリンは、そもそもはADHD(注意欠如・多動性障害)の症状を緩和するための薬物で、ドーパミンなどの神経伝達物質を活性化すると言われている。注意欠如の症状を緩和することは、注意力を補うとも考えられるから、障害のない健康な人が飲めばいっそう注意力が増すと信じられるようになった。

米国では、多くの学生が成績向上や適性試験をパスするために、リタリンを治療以外の目的で服用しているとの報告がある。リタリンを服用すれば、大学進学適性試験(SAT)の点数が100点以上UPすると信じられていることもあり、あるキャンパスでは、成績向上のためにリタリンを服用する学生は全体の16%に上ったという。

他にも、睡眠障害(ナルコレプシー)の治療に用いられるモダフィニル、デキストロアンフェタミンを含む混合アンフェタミン塩などの神経刺激薬や、アルツハイマー病を治療するために使用されるドネペジルなどの認知症治療薬が、知性を改善すると信じられており、リタリンと同じように治療以外の目的で、学生やビジネスマンなど多くの人々にすでに服用されている。

このような薬物の服用は、効果の信ぴょう性はもとより、入手方法の違法性や副作用、公平性など多くの問題をはらんでいる。

しかし、いくつかの調査報告が、すでに相当数の人びとが服用していると明らかにしているのだから、より効果的で、副作用が少なく、しかも安価な「スマート・ドラッグ」が開発されれば、いまよりもっと多くの人が、「スマート・ドラッグ」を服用するようになるだろう。

 

「知」と「情意」の両方が発展しなければならない

読者の中には、「スマート・ドラッグ」が認知機能を増進するなら、モラルを向上させるタイプの「道徳ピル」は蛇足なのではないか?と思う読者もいるはずだ。

この疑問を解くには、主知主義と主意主義という対立的な哲学的立場の理解が役に立つ。ざっくり説明しよう。古代や中世の世界では、十分に知的であれば物事の是非が分かるはずだから、「知」こそが、道徳的な行為の梃子だとする立場があった。これが主知主義だ。

しかし、主知主義が理想とするような物事の是非を分別する賢者には、私たちは遠く及ばない。それどころか、賢者に至らない私たちの「知」は、道徳的な共同生活のためにはならず、むしろ利己的な動機に力を与えるばかりだ。人よりも多く、高く、良くありたいと願う向上心も、他者を顧みないなら一理もない。

共同生活においては、むしろ「知」を正しく導く友愛の心(情意)こそが道徳的な行為の梃子ではないか。この知性と情意の相互作用を重視する立場は、主意主義と呼ばれてきた。

知恵と勇気と節制という三つの徳の調和を重視するプラトン(魂の三分説)も『プロタゴラス』で、「知(技術)」を補うものとして、「慎み(節制)」と「戒め(正義)」の二つの美徳を挙げ、それらを「友愛の心を結集するための絆」であると言っている。これらの美徳を敷衍して現代風に言い換えるなら、他者を信頼し、思い遣り、助け合う道徳心ということになるだろう。

「スマート・ドラッグ」に対して「道徳ピル」が重視される理由も、ここにある。Savulescuらは、実際、「スマート・ドラッグ」がいまよりも社会に浸透すれば、もっと利己的な人間が増えるかもしれないので、その時、そうした人びとを他者を思い遣る道徳的な成員に変えていくためにも、「道徳ピル」が必要だと言っている。