昭和15年8月、航空技術廠飛行機部研究係の集合写真。ほとんどが20代の若いエンジニアたちだ

日本の新幹線の「安全」を作ったのは、零戦開発の大功労者だった

あるエリート技師が歩んだ激動の人生
日米開戦時、世界を驚かせた名戦闘機・零戦を開発した技師たちはおしなべて若かった。最年長の堀越二郎でさえ、昭和12(1937)年に開発を命じられたとき、34歳に過ぎない。終戦時、20代、30代だった優秀な航空機技師たちは、戦後、航空機の生産を禁じられた日本で、その頭脳を活かすため、他業種へ向かう。ある者は自動車メーカーへ、ある者は国鉄(現JR)へ、ある者は電機メーカーへ……。搭乗員だけではなく、頭脳をもって米英と戦った男たちへも取材を重ねた神立さんによれば、彼ら若き技師たちの存在なくして、戦後の技術大国日本の隆盛はなかったはずだという。

「松平さんのおかげで、安心して戦えた」

18年前(2000年)の8月4日、一人の元技術者が世を去った。
 
松平精(ただし)さん、享年90。

昭和9(1934)年、東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業後、海軍航空廠(のち航空技術廠[空技廠]と改称)に入廠。以来、一貫して飛行機の振動問題を研究零戦(零式艦上戦闘機)の空中分解事故の原因究明などさまざまな難問に取り組んだ。

 

戦後は鉄道技術研究所(現・鉄道総合技術研究所)に入って鉄道車両の振動問題を研究。「夢の超特急」といわれた東海道新幹線の開発でも重要な役割を果たし、この分野における世界的先駆者として大きな実績を残した。

海軍戦闘機隊を代表する搭乗員の一人で、航空技術廠飛行実験部員(テストパイロット)としてさまざまな新型機のテスト飛行に任じた志賀淑雄さん(少佐。1914―2005)は言う。

「零戦が飛んだのは、設計者の堀越二郎さんはもちろんだけど、実験段階では松平さんのおかげ。この人が振動問題を解決してくれたから、われわれは安心して戦えたんです

昭和15年8月、零戦が正式採用された頃の松平さん。30歳

私は、志賀さんの紹介を得て、平成7(1995)年から松平さんが亡くなるまでの5年間、個人的な交流もふくめインタビューを重ねた。ここでは、今日が命日の松平氏を偲びつつ、「零戦」と「新幹線」の意外な接点について振り返りたい。

昭和20(1945)年、日本の敗戦により太平洋戦争が終結し、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命でいっさいの軍事活動が禁じられると、それまで陸海軍の研究機関や軍需産業に従事していた多くの技術者が一般産業分野に流れ込み、戦後日本の復興に大きく貢献した。

その技術移転の範囲はきわめて多岐にわたるが、「世界一優秀」と言われる鉄道技術の分野においても、技術者たちが、戦時中培った技術や理論を基礎に、重要な役割を果たしている。松平さんも、その一人だった。

松平さんは、明治43(1910)年、東京・浅草で生まれた。生家は、もとは徳川家と同族の、三河の松平家の一つで、七代英親が正保2(1645)年、豊後国木付(現在の大分県杵築市)に入封以来、代々杵築藩主をつとめた家である。十代藩主親貴のとき明治維新を迎え、版籍奉還ののち子爵に列せられ、東京に移り住んだ。その後、親貴が早世すると嫡子親信が家督を相続したが、この人が松平さんの父である。

「兄が子爵を継ぎましたが、私は三男だったので、自由気ままな身分でしたよ」

と、松平さんは言う。

学習院高等科から東京帝国大学工学部船舶工学科に進学。大学ではボート部に所属するスポーツマンだった。

「あるとき、造船所に実習に行ったんですが、もう少し学問的に面白いところかと思っていたら、船のリベットを打ったり肉体労働ばかりで、頭を使う場所がないんですよ。それで、野蛮なところに来たなあ、と。しかしその後、教授にお供して三菱航空機の工場に行ってみると、飛行機の方は船とちがって、やってることが非常に学問的、理知的なんですよ。それで、飛行機の道に進もうと。船舶工学科だから船舶の講義は受けないといけませんが、空き時間に航空の講義を一生懸命に受けました。

そしたら卒業する少し前、昭和9(1934)年1月頃、海軍が飛行機を国産化するため、横須賀海軍航空隊(横空)の隣に大規模な航空技術研究機関、航空廠を設立し、技術者が大勢要るから来ないか、という話があり、こりゃいいやと思って飛びついたんです」

新たな研究機関を設立したものの、当初は海軍の人事制度が追いつかず、松平さんたち大卒技術者も身分は「工員」、しかし大学で知識を身につけているからと「有識(ゆうしき)工員」という妙な肩書きだった。職名、身分はその後、制度の整備にともない、「技手(ぎて)」(判任官)を経て昭和13(1938)年には技師(高等官。松平さんは終戦時、軍人の中佐に相当する高等官四等)となっている。その間、陸軍に徴兵され、昭和10年から11年にかけ、在営10ヵ月、再入営2ヵ月の幹部候補生として東京・立川の飛行連隊に入営した。

昭和11(1936)年、兵役を終え、航空廠に復帰した松平さんは、当時、飛行機の高速化にともない問題化していながら専門の研究者がいなかった、飛行機の振動問題を手がけることを命じられた。機械振動については、まだ日本のどの大学でも研究されておらず、松平さんは、機械振動学を初歩から研究しつつ、自ら切り拓いていった

昭和11年8月の松平さん。当時26歳

〈幸か不幸か、およそ反知性的な兵隊生活を一年間強制されたおかげで、極度の知識の飢餓状態に陥っていた私は、手当たり次第に振動の教科書や文献を漁っては読みふけった。

そのとき、たまたま出版されたばかりのProf. Den Hartogの"Mechanical Vibrations"(1st.ED. 1934)にめぐりあったのは、私にとってこの上ない幸であった。この名著のおかげで完全に振動学のとりこになり、夢中で読み終わったときは、早くも一人前の振動学者になった気がしたものである。〉(「日本機械学会誌・昭和49年6月号」所収の『零戦から新幹線まで』より)