昨年、新たに進化論を紹介する本が出版された。その本の中で、ダーウィンの進化論が批判されていた。
ダーウィンの進化論によれば、どんなに複雑な形質も、わずかな変異の積み重ねによって進化することになっている。しかし、中途半端な中間段階は役に立たないことが多く、その段階を通過して複雑な形質が進化するはずはない。したがって、ダーウィンの進化論はおかしいというのである。
実はこれは、ダーウィンの進化論に対する批判としては、もっとも古くからあるものの1つである。
ダーウィンは自分の進化についての考えを『種の起源』にまとめ、1859年に出版した。しかし、その出版直後から、『種の起源』に対する批判は続出した。それらの批判の中でもっともすぐれていたものは、動物学者セントジョージ・ジャクソン・マイヴァート(1827〜1900)の著書『種の誕生』(1871)だろう。ダーウィンはマイヴァートの批判に答えるために、『種の起源』の第6版で新たに1章を加えているほどだ。それほどマイヴァートの批判は的確だったのである。
それにしても、約150年のときを経て、同じ批判が繰り返されるのはなぜだろうか。それには、ちょっとしたトリックがありそうだ。
年末に彼女と食事をしていたあなたは、突然こう聞かれた。
「ねえ、初詣はどこに行く?」
「いや、別にどこでもいいけど」
「そういうのダメよ。はっきり決めて」
そこで、あなたは考え始める。家の近くの小さな神社でいいか。それとも、人がたくさん来るような、にぎやかなところでないとダメかな。
しかし、実はあなたは、初詣にあまり興味がない。行ってもよいが、行かなくてもよい。というか、彼女に聞かれるまで、初詣のことなど考えてもいなかった。だから本来なら、初詣に行くか行かないかを、まず話し合うべきなのだ。
ところが、いきなり「初詣にどこに行くか」と聞かれたことによって、「初詣に行くか行かないか」という問題はもう済んだことにされてしまった。「初詣に行くこと」はすでに決まった「前提」にされてしまい、いきなり「初詣にどこに行くか」というテーマからスタートしたのだ。
狡猾な人は意図的にこれを行い、自分の意見を押し付けてくる。こういう罠に掛かっては(親しい人の場合は掛かってもいいけれど、通常は)いけない。
人は意外と真面目なので、質問をされると、ついその質問に正面から答えようとしてしまう。つい、議論の土俵に上がってしまう。でも、土俵に上がる前に、考えなければいけないことがある。質問には必ず前提が存在する。その前提をチェックしないで、いきなり質問に答えるのは危険だ。
あなただって、つい土俵で相撲を取る約束をしてしまうかもしれない。そうなったら、裸になってまわしを付けなければならないことを後から知って、慌てても遅いのだ。