1944年に撮影された、クリスマスの釜石捕虜収容所。集合写真の真ん中にいる小暮氏の祖父・稲城誠氏は当時28歳だった 写真提供/ニューズウィーク日本版

リアル『永遠の0』アメリカ人捕虜と語る「戦争犯罪人」としての祖父

遠い記憶の先に終止符を探して【後編】

戦後70周年を迎えようとしていた2015年6月、ニューズウィーク日本版記者の小暮聡子氏は、日本軍捕虜となった元アメリカ兵やその家族の話を聞くためにアメリカで開かれた「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会(ADBC)」年次総会を訪れていた。

元捕虜収容所長を祖父に持つ小暮氏は、元捕虜たちが自分に心の内を明かしてくれるか不安だったが、元捕虜のスターク氏は「あなたにはすべて話そう」と当時の地獄のような捕虜生活について語り始める。飢えに苦しみ、わからない言葉の中で暴力も振るわれる毎日。そして、戦後も家族にまで受け継がれる苦しみの記憶。その記憶に終止符を打てる日は来るのだろうか。

話し終えたスターク氏は、「次はあなたが話す番だよ」と小暮氏に促した。

デジタルメディア初掲載の渾身ルポルタージュ後編。

 

28歳で捕虜400人を管理していた祖父

祖父、稲木誠は44年4月から終戦まで、岩手県釜石市にあった収容所の所長として日本製鐵釜石製鉄所で働く連合軍捕虜約400人を管理していた。捕虜の国籍はオランダ、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドで、その多くは若者だった。祖父も当時28歳だった。

終戦が迫った45年7月と8月、釜石市は太平洋から連合軍による艦砲射撃を浴び、釜石収容所でも捕虜32人が犠牲になった。祖父は戦後、艦砲射撃の際の安全管理責任や捕虜への不法待遇などを問われて「B級戦犯」となり、A級戦犯らと共に巣鴨プリズンに5年半拘禁された。祖父は広島文理科大学で英語や哲学を学んだ後に学徒兵として徴集されたため、プリズンでは英字誌のタイムやニューズウィークを読んでいた。アメリカの質の高いジャーナリズムに触れて日本の敗北を思い知ったという祖父は、出所後に時事通信社の記者になり、晩年に自分の体験をいくつかの手記として発表した。

小暮氏の祖父・稲木誠氏。戦犯として巣鴨プリズンに収容され、その後時事通信の記者となった 写真提供/ニューズウィーク日本版

祖父は「戦犯」だった。私がそれを知ったのは、高校2年のある夏の日だ。祖父は私が7歳のときに他界していたため、戦争体験については残された手記などを通して初めて知ることができた。手記には祖父が捕虜の管理に尽力したことが事細かに記され、戦犯とされたことに納得できない様子がにじみ出ていた。

著書の1つにはこうつづられている。「戦争中の捕虜の苦痛を思い、自分の収容所から多数の死傷者が出たことを悲しんだ。その遺族の人たちの嘆き、怒りを想像すると、石をもって打たれてもいいと思った。だが、罪を犯したとは、どうしても考えられなかった

しかし戦後30年が過ぎた頃、祖父の心を救うニュースが舞い込んでくる。釜石収容所にいたオランダ人の元捕虜ヨハン・フレデリック・ファン・デル・フックから釜石市長宛てに手紙が届き、「収容所での取り扱いは良く、重労働を強いられることはありませんでした」と書かれていたのだ。これをきっかけに祖父とフックは文通を始め、収容所での生活を振り返ったり、互いの家族の話や日蘭関係の歴史について語り合ったりと、敵味方を超えた友情を育んでいった。

祖父とアメリカの間で

ここにいて、居心地がいいか──。中学時代、アメリカのドラマや映画を観てアメリカに憧れ、ホームステイを経験していた私は、そのアメリカが祖父を裁いたことを知ると複雑な感情を抱くようになっていた。フックが評価してくれた祖父が、なぜ「戦犯」として裁かれたのか。祖父を裁いたアメリカとは、どんな国なのだろう。

その答えが知りたくて02年にアメリカの大学に留学すると、アメリカは翌年にイラク戦争を始めた。祖父側の視点で語られる物語に親しんで育った私の心には、彼の無念さが染み付いていたのかもしれない。祖父が勤めた時事通信社のワシントン支局でインターンとして働き、イラクに空爆を繰り返すアメリカの様子を追い掛けながら、私はやるせなさを感じていた。「勝っても負けても戦争ほど愚かしく、残酷で、むなしいものはない」と祖父が書き残し、終戦後も人々の心に大きな傷痕を残す戦争を、アメリカはまだ続けている──。