元捕虜のスタークはこの当時もPTSDに苦しみ続けていた。捕虜時代の体重は44キロだった 写真提供/ニューズウィーク日本版

元捕虜収容所長を祖父に持つ記者と日本軍捕虜だった米国兵の対話

遠い記憶の先に終止符を探して【前編】

2015年8月15日、日本は戦後70周年を迎えた。日本が語る「国家」としての歴史が議論される一方で、第二次大戦には当時を生きた一人一人の物語がある。それはそれぞれの国で、体験者それぞれの「真実」として、多くの場合苦しみを伴いながら今後も語られていく。その戦争の記憶に「終止符」を打てる日は来るのだろうか——。

その思いをもとに元捕虜収容所長の祖父を持つ記者小暮聡子氏が、日本軍捕虜だったアメリカ兵に会いにいった。3年前のルポルタージュをデジタルで初公開する。

 

捕虜たちが見た地獄

2015年6月初め、私は祖父が残した物語といま一度向き合うため、赴任先のニューヨークから米南部のニューオーリンズ空港に降り立った。ジャズの街ニューオーリンズは既に夏真っ盛りで、空港を出るとむわっという熱気が身を包む。車で30分も走れば音楽と酒にまみれた繁華街フレンチクオーターに到着するが、私を乗せたタクシーが向かう先は陽気な観光地ではない。

旅の目的は、戦時中にフィリピンのバターン半島とコレヒドール島で日本軍の捕虜となったアメリカの元兵士や民間人、その家族や遺族が集う戦友会に参加すること。この「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会(ADBC)」年次総会では、1つのホテルに集った参加者が数日間にわたり戦中・戦後の体験を共有し、次世代に語り継ぐ。私がこの戦友会に参加するのは22歳だった03年以来、12年ぶりだ。

戦友会に集まった元捕虜たち。前列左端が小暮氏の祖父がいた収容所にいたというウォーナー、後列左から2番目が小暮氏がインタビューをしたスターク 写真提供/ニューズウィーク日本版

日本軍に捕らわれた捕虜たちにとって、捕虜生活は「生きるか死ぬか」の戦いそのものだった。1941年12月8日、日本軍が真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入すると、本間雅晴中将率いる日本軍はダグラス・マッカーサー米極東陸軍司令官下のフィリピンに侵攻を開始。首都マニラからマニラ湾を挟んで対岸に位置するバターン半島とコレヒドール島の米軍とフィリピン軍は、日本軍との戦闘を経て42年4月以降相次いで降伏、捕虜となった。

その後、日本軍が7万人余りの捕虜を約10キロ先の収容所まで炎天下のなか飢餓状態で歩かせ、約3万人の死者を出した「バターン死の行進」は、アメリカでは今も旧日本軍の残虐性の象徴とされている。日本の市民団体「POW(戦争捕虜)研究会」によれば、第二次大戦中、日本軍がフィリピンなどアジア・太平洋地域で捕らえた連合軍の捕虜は約14万人。そのうち約3万6000人は水や食糧、衛生設備が欠如した輸送船、いわゆる「地獄船」で日本に送られた。

航海中は連合軍からの攻撃も加わって多くが命を落としたが、生き延びて日本に到着した捕虜たちは全国約130カ所の捕虜収容所に連行され、炭鉱や鉱山、造船所や工場などで働かされた。戦争末期にかけて日本側も疲弊するなか、捕虜たちの生活は過酷を極め、終戦までに約3500人が死亡したという。死因は飢えや病、事故や虐待、連合軍による爆撃などだった。

ADBCのメンバーは、こうした悲惨な捕虜生活を生き抜いた人とその家族、または捕虜のまま亡くなった人の遺族たちだ。元捕虜の年齢が90歳を超え、組織の主体はその子供たちの世代に代替わりしているが、子世代もまた親の苦しみを受け継いでいる。元捕虜の多くが帰還後も心的外傷後ストレス障害(PTSD)に悩まされ、捕虜体験に口を閉ざす一方で、父親を理解しようと調べるうちに日本に対して憎悪を抱く子世代も多いという。

そんな戦友会で受付登録を済ませた私は、03年にこの会に参加して以来、元捕虜やその家族と面会するたび幾度となく経験してきた「居心地の悪さ」を感じた。もちろんここは、見知らぬ日本人がハグとキスで歓迎されるような場所ではない。だがそれ以上に、私には参加者を遠ざける肩書があった。私は、「元捕虜収容所長の孫」。そして祖父は戦後、「戦争犯罪人」として裁かれた人物だったからだ。