老後の天才・北斎が70歳過ぎから始めたこと

だから89歳まで長生きできた
神山 典士 プロフィール

マニフェスト達成!

北斎を筆頭に、浮世絵は1858年の安政の5ヶ国条約を境に、どっとヨーロッパに流れ込んだ。その数約30数万枚。

日本では当初40銭だった北斎の「冨嶽三十六景」が屑屋、質屋、古道具屋等を経るうちに、横浜の美術商からアメリカに渡るときには1500円まで値がつり上がったという。実に3500倍。

この頃約30年間パリで画商をしていた林忠正が1905年の帰国時に買った屋敷は、いまの新橋演舞場がある1500坪の敷地の洋館だったという。それだけを見ても、ジャポニスムの狂気さが伺える。

モネの家の壁には浮世絵が飾られていた

1874年4月、小さなアトリエで約30人の若き画家たちが展覧会を開いた。参加したのはモネ、ピサロ、ルノワール、ドガ、セザンヌといったのちの巨匠たち。まだ名もなく実績もなく金もない若者たちだった。

「この絵は何を描いているのだろう。単なる印象か? 描きかけの壁紙でももっと描きこんでいるだろう」

とある高名な批評家がモネの「印象・日の出」をこう称したことで、彼らは後に「印象派」と呼ばれることになる。

当時彼らの頭上には、ルイ14世の時代から続く美術界の権威、「サロン」という名の分厚い黒雲がかかっていた。宗教画の流れを組む神中心のテーマ、シンメトリーや遠近法に固執する構図、暗い色使い、重々しい筆遣い等、古いしきたりにからめ捕られた彼らは一様にもがいていた。

 

そこに突然、ファーイーストの島国から〈HOKUSAI〉がやってきた。テーマは自由、構図もシンメトメリーにあらず。鮮やかな色彩、生身の人間の毒々しさを描くゆえの新鮮さ!

それらをもっているのが浮世絵だった。

「波をテーマにしていいのか!」

画家たちは北斎の「神奈川沖浪裏」を見て、そう叫んだ。

ヨーロッパのアーティストにとって北斎や浮世絵は、まさに「黒船」だった。そこから一般美術ファンにも日本美術ブームは広まった。

73歳のマニフェストどおり、北斎は「110歳で一点一格が生きるがごとき」存在に、西洋で上り詰めていったのである。

1896年パリで出版された評伝の肖像