「ゲンバク」と呼ばれた長崎の被爆少年が受けた「あまりに酷い差別」

いじめと差別はなくなるか
中村 由一 プロフィール

正式に郵便局員になって1年ほどしてから、郵便配達の仕事をするようになりました。働いてばかりで勉強をあまりしなかった僕は、難しい漢字を知りません。だから住所と宛名を読むのが大変だったのです。

読み書きの必要を感じた僕は、家の近所の印刷所で募集していた、夜間の作業員に応募しました。昼は郵便局、夜は印刷所で働き、この仕事のおかげで漢字の読み書きができるようになった僕は、もっと勉強がしたくなり、通信制の県立高校で勉強することにしたのです。

1964年4月、21歳の僕は、長崎県立長崎西高校の1年生となりました。教科書を開くと、わからないことだらけでした。数学の方程式や国語の長文読解がさっぱりわからず、それでも毎日仕事が終わった後に家で勉強しました。勉強だけでなく、課外活動も取り組み、仲間もできていきました。

 

すべての体験を話せるようになった日

被爆者であることや被差別部落出身であることを話せるようになったのは、1970年、長崎港開港400年式典の開かれた年に、磯本恒信さんという方が被差別部落出身だと大勢の人の前で発表したことがきっかけです。磯本さんは故郷に住めなくなった浦上町の人たちが再び集まれるようにするための活動もしていました。そして1979年には、アパートが建てられたのです。いろんなところに住んでいた仲間が帰ってきました。そして、今まで沈黙を守っていた母も、原爆の辛い体験を若い人に話すようになっていきました。

僕が初めて若者たちに自分の被爆体験を話したのは、今から20数年前の夏、佐世保市内の高校でのことです。200人ほどの高校生が講堂に集まっていました。しかしそのときは、上手に話すことができませんでした。緊張のあまり顔をあげられなくて、ずっと手元のメモを読むだけでした。自分の体験を包み隠さず話すことができなかったのです。

僕が通っていた大浦の小学校から話をしてほしいと頼まれた時には、担任の先生に僕はこう言いました。

ここで僕は、いじめを繰り返し受けました。本当にあった話です。それを話してもいいですか?

先生は「もちろんです。ぜひお願いします」と言ってくれました。こうして、少しずつ自分の体験を隠さず話せるようになっていったのです。

その後、大阪のある中学校で話をすることになりました。その地域には浦上町のような被差別部落があり、そこの出身者も通っている中学校での講演でした。

そのとき僕は初めて、被爆体験のほかに自分が被差別部落の出身だということを、勇気を振り絞って話したのです。子どもたちが真剣に聞いてくれるのが感じられました。これからは被爆体験だけではなく、この世の中から差別やいじめをなくすために、いじめを受けたときの僕の気持ちもしっかり語っていこうと、心に決めました。

いじめと差別がなくなる日

1999年からは、大阪の貝塚二中の生徒たちが、毎年6月、修学旅行で被爆体験と差別の問題について学ぶため長崎にやってくるようになりました。最終日の夜に僕が講演し、そのあと生徒たちが自分の悩みをうちあける「全体学活」が開かれます。全体学活では、それまで自分のことを語れなかった生徒が、学年全員の前で言いにくい悩みを告白することもあります。僕に相談や質問をする生徒も大勢います。

子どもたちに話をするときに、必ず聞くことがあります。

差別やいじめはなくなると思いますか?

ほとんどの子が「なくなりません」と答えます。

しかし、僕ははっきりと信じています。必ずなくすことができると信じています。

僕は生き残りました。

原爆にも、差別にも負けずに。だから、これからも生きていきます。若い人たちに、僕の話を聞いてもらうために。戦争や差別のない世の中が、必ずやってくるように。

NHK・ETV特集『原爆と沈黙~長崎浦上の受難~』(2017年8月放送)の内容を、子ども向けに写真や地図、原爆の説明を加え、ルビをふって書籍化。同番組を中村氏へのインタビューを中心に構成したNHKのディレクター渡辺考氏が原稿をまとめている。