僕はずっと自分の体験を口にすることができませんでした。なにより怖かったのは、差別です。被爆したことを人に話して、それが差別という形で自分に戻ってきたらどうしよう。そんな風に考えてしまっていたのです。

それは、僕が被爆者であることで、大変苦しい思いをしたからです。

僕は、小学校の先生や友達から、「ゲンバク」と呼ばれていじめられました。だから、被爆者であることを隠して生きることにしました。そして「ゲンバク」に加えて、もう一つの差別も受けていました。そのこともひた隠しにしていました。

しかし、長崎に原爆が落とされてから、70年以上の年月が流れました。僕も70代半ばになります。残された時間がそんなに多くないと気づいた時、僕の体験をみなさんに知ってもらいたいと思うようになりました。

長崎に原爆が落とされ、何が起こったのか? ふたつの差別は、どのようなものだったのか? 「ゲンバク」と呼ばれた僕が、どんな体験をしたのか――。

1942年10月4日長崎県で生をうけた中村由一(なかむら・よしかず)さんは、兄と弟、そして2人の従兄姉とともに長崎市浦上町で暮らしていた。靴職人だった父は陸軍二等兵として出征し、母が5人の子どもを育てていた。そんなとき、1945年8月9日を迎えた。

中村さんは九死に一生を得た。しかしその後の人生は、いじめや差別を抜きに語ることはできない。

20年ほど前から、中村さんは学校などから頼まれると、少しずつ子どもたちに自分の体験を語り始めるようになった。今では毎年長崎へ修学旅行に来て、中村さんの話を聞いていく中学校もある。そしてその中村さんの人生が『ゲンバクとよばれた少年』という子ども向けの一冊の本にまとめられた。
そこで語られる中村さんの人生の一部を、同書よりお伝えする。

故郷の町が消えた日

8月9日午前11時2分、B29爆撃機が、浦上の上空から原爆を落としました。原爆が爆発した時、僕は家で、近所に住んでいる親戚の叔父といました。2歳10ヵ月のときです。

僕は原爆の光を直接浴びずに済んだのですが、ほぼ同時に襲ってきた激しい爆風に、吹き飛ばされてしまいました。家は一瞬で崩れ落ち、僕は気絶したまま家の横のレンガ塀の下敷きになってしまいました。

僕は爆風で飛ばされた時に頭に大きな怪我をし、熱線を浴びた両足のすねより下の部分に、大やけどを負っていました。最初は、「由一は死んでいる」と誰もが思ったそうです。兄の常己が「指が動いとる!」と言ってくれたことで、放置されずに治療を受けることができ、僕は命びろいをしました。しかし今でも、両足の指は動かすことができません。やけどをした皮膚は黒いままです。

中村さんは足の脛から下の部分に大きなやけどを負った ©講談社

長崎では、約15万人の人々が被爆し、この年のうちに7万4000人近くが亡くなりました。爆心地から1.2キロしか離れていない浦上町では、すべての家が倒れ、燃え、町が消えてしまいました。およそ900人のうち300人がこの年のうちに亡くなり、300人近くが生死不明になりました。弟の勝利も、下敷きになったがれきをどかすことができず、火にまかれてしまいました。生き残った人たちも、家をなくしてふるさとを離れました。

兄の常己は、原爆が落ちてひと月ほどたった頃から怪我をしたところに蛆がたかり、その後ひきつけを起こしたり、顔や体が腫れあがったりするようになりました。そして9月16日、永遠に帰らぬ人になりました。10歳でした。

「ピカドン」から放射能がうつる

原爆で家を亡くした僕と母は、茂木町の祖母の家に引っ越しましたが、母屋に入れてもらうことはできず、軒先の納屋で暮らすことになりました。物置として使われていた小屋をあてがわれ、床にゴザを敷いて暮らすことになったのです。

祖母にとっては、僕たちが来たことが迷惑だったようです。僕たちが「ピカドン」だったからです。「ピカドン」は、戦争が終わった頃にできた言葉です。最初は、原爆そのものを指す言葉として使われました。

でもそのうちに、「ピカドンの近くに行くと、放射能がうつる」と、被爆しなかった人が被爆した人を差別して言う時にも、使われるようになりました。もちろん、本当はそんなことはありません。