師範学校の問題児にマスコミシステムのカギとなる理念が芽生えた瞬間

大衆は神である(12)
魚住 昭 プロフィール

清治の二重性

しかし、それほど緻密な計算をする清治の像と、ずぼらで横着で無断拝借の常習犯である清治の像は一致しない。師範の同級生で、のちに講談社の最高幹部になる長谷川卓郎は、清治のこうした二重性を客観的に見つめている。戦前の速記録での長谷川の発言である。

〈誰も知っている通り、学生時代の社長というのは、非常に磊落(らいらく)であったもので、どんなことにもこだわらない。で、そう見えたのであるから、その結果、いろいろの奇談が残っているわけだが、私はああ見えたけれども、あれは真の磊落ではなかったと思っている。(略)

私の見る社長は子どもの時から非常に緻密な頭の持ち主で、何事にも細心の注意を払っておったということがいろいろの方面に現れておるのです。と同時に、どういうわけかあまり緻密な頭を持って細かいことに拘ることは人間として大成しない、成功しないという風に何かで感じたのであろうと思うのですがね。強いて磊落を装っておったというふうに見える。

それがしかも装ったというとボロを出すものであるが、それを出さずにやっておったのですから(略)非常にマセていたのではないか(略)将来の目的を立てて、すべての行動をそれに向くようにとっておった〉

 

おそらくそうなのだろう。清治のずぼらで奔放不羈(ほんぽうふき)なふるまいと、計算尽くの緻密さは矛盾しない。彼のなかには両方の要素が共存していて、どちらが主でどちらが従だと言いがたい。

それより大事なのは、清治がのちに事業化するマスコミュニケーション・システムのカギとなる理念が、漠然とだが、芽生えつつあることである。

清治はこのころすでに、文字に「書かれた言葉」と、音声で「語られる言葉」の質的なちがいに気づいているようだ。「語られる言葉」は、「書かれた言葉」のように複雑多量のデータを伝えられない。

その代わり、音の高低や強弱、声調、話し手の表情の変化や身振り手振りによって、相手の理性ではなく感情を揺さぶることができる。

もっと踏み込んでいえば、「語られる言葉」には人々の魂をわしづかみにする威力がある。問題は、その威力をどう利用するかである。清治が「語られる言葉」をベースにした雑誌の創刊に行き着くまでにはさらに10年の月日が流れることになる。

(第1部、了。第2部は8月12日スタート)

■序章~第1章の主な参考文献

安倍能成『岩波茂雄伝』(岩波書店、1957年)
伊藤整『日本文壇史7 硯友社の時代終わる』(講談社文芸文庫、1995年)
杉森久英『滝田樗陰ー「中央公論」名編集者の生涯』(中公文庫、2017年)
杉森久英執筆『中央公論社の八十年』(中央公論社、1965年)
高田博行『ヒトラー演説 熱狂の真実』(中公新書、2014年)
辻平一『人間野間清治』(講談社、1960年)
坪谷善四郎『大橋佐平翁伝』(栗田出版会、1974年)
中村孝也『野間清治伝』(野間清治伝記編纂会、1944年)
前田愛『近代読者の成立』(岩波現代文庫、2001年)
御手洗辰雄『伝記 正力松太郎』(大日本雄弁会講談社、1955年)