師範学校の問題児にマスコミシステムのカギとなる理念が芽生えた瞬間

大衆は神である(12)
魚住 昭 プロフィール

内容より形

次も小暮の回想である。

〈それから一ぺんこういうことがありました。それは社長が饅頭をおごるというわけです。そのころ下級生が上級生におごられるということは少ないころで、おごってもらっても窮屈ですから行かないのですが、一度、とにかくおごるというので行ったことがあります。

場所はどこだったか覚えていないが、片原饅頭(=前橋名物の酒饅頭)をおごってもらい、それから公園に行きましたが、(清治は)公園のいちばん上に立って、利根川に向って演説をしました。それが、またとても大きな声で、近所に人がいたら気が狂っていやしないかと思われるくらい大きな声でした〉

 

人の話を聞くのも、演説も、そうして前にふれた講談も、口と耳と目によるコミュニケーションの一種である。その技法に優れた者は人の心を捉えることができる。

師範学校の後輩にあたる歴史学者の中村孝也は『野間清治伝』で、清治が名士の講演や演説を聴くのが大好きで「人の居ない処で真似をしたり、道を歩きながら稽古をしたり、美辞麗句を暗誦したり」していたと述べたうえで、こんな興味深い指摘をしている。

〈彼の(略)模倣癖は、彼を駆つて名士の演説の内容を把握するよりも、寧(むし)ろ、その語調や態度やゼスチユアなどを学ぶ方に夢中ならしめたのではないかと思はれる程である。彼は耳を傾けて一心に諦聴(ていちょう)しながら、演説技術を分析し、その長短を指摘し、これに倣(なら)つて自ら練磨し、他人の批評を求めて、自ら反省し、殆(ほと)んど倦(う)むことを知らなかつた〉

内容よりも「語調や態度やゼスチユア」なのである。それが、清治の着眼の、ある意味で鋭いところだ。同級生の川村新次郎もこう語っている。

〈(清治が)何か人に会うときとか何とかには懐から鏡を出して、見る。小さい鏡でしたが、それで「何だい、君、そんなことをしていて女みたいじゃないか」と笑ったですが、それはやはり人に会った時にどういう態度、どういう顔つきをしていたほうがいいか、つまり鏡を見て人相を良くする。

先方の人にお願いするときはどのような顔形でやり、どういう風に頼んだらいいか、どうしたものだろうか、この方がもっともらしいだろうとか、対等の人にはどうやって話したものだろうかと、いちいち鏡を見て話したりなんかしていろいろ人相を良くするようにしていたのです。

自分で研究するばかりでなく、人のいいのがあると、その態度をまねるのですね。煙草の吸い方でも、人の呼び方でも鏡を見て練習するのです〉

人の心をつかむために必要なのは、誠意とか真心ではない。相手の気を惹くよう計算され尽くした表情であり、話し方であり、技術であると清治は言っているように思える。