中国「食品汚染」本当の原因は…現地人の衝撃告発

美しかった水源が、ゴミだらけに

油まみれの「100円焼ソバ」

筆者は、ここ30年ほど、日本と中国とそれ以外の各国を行き来しつつ暮らしています。なかでも長いのは、中国での生活。なぜか北京には行ったことがないのですが、日本人の観光客はまず訪れることがないであろう無名の僻地を中心に、無数といってよい地域を探索し、生物の撮影と調査を続けています。

省で言えば25省、町で言えば…数え切れません。年間平均で100日中国に滞在しているとしても、30年で3000日。あちこち移動し続けていることが多いので、泊まったホテルや宿舎は1000件近くになるでしょう。一日3食として、1万食近い食事を中国で食べていることになります。

専門分野である野生生物については、事細かなデータを取っています。しかし筆者は、人間社会には全く興味がないので、いちいち注意して観察しているわけではありません。それでも、過酷な環境でも言葉が通じない村でも、毎日寝なくてはならないし、食事も摂らなくてはなりません。そうした感覚や勘は、理屈ではなく、体に沁み込んでいます。

今回お話ししたいのは、中国の食べ物についてです。ご存知のように、中国には北京料理や広東料理、四川料理など、様々な地域料理があります。それらの中には、地域の特色がよく出たものもあれば、美味しいものもあることは確かでしょう(中国人アシスタントのMと一緒の時は、たまに“大当たり”もあって、この写真の魚(松鼠魚)はとても美味しかった)。

魚を丸ごと揚げて甘酢あんをかけた料理「松鼠魚」(筆者撮影)

でも筆者が中国でひとりで食べるときの「中国料理」は、大抵の場合、どこの地域でも同じような味にしか感じられません。20以上の省の、数百の町や村で、1万回ほどの食事をしているわけですが、おそらく2~3割は屋台のヤキソバやチャーハン。そのほとんどが、次のようなパターンで作られます。もう慣れっこにはなっているけれど、正直いまだにガッカリします。

屋台のおばちゃんに、焼ソバをオーダー(おおむね100円前後)。「よっしゃ、美味しいのを作ってあげるよ!」と、おばちゃんは勢いよく鍋を回してソバを放り込みます。卵を入れて、野菜を入れて…香ばしい香りが漂ってきました。オッ、これは美味しそうなのが食べられるぞ、と期待してしまいます。

しかし、なかなか作業が終わりません。何度も調味料(大量の化学調味料だったりします)や油を加えたりして、次第に焼ソバは油まみれになっていきます。

途中で繰り返し吟味しつつ、うーん、油と味の素と唐辛子が少し足りないかも…と、「ドボっと」入れていく。こちらはひやひやしながら、適当なところで早く終えてくれないかな…と待つしかありません。

やっとでき上がったおばちゃんの「自信作」は、最初の香ばしさはどこに消えたのか…? あれやこれやと手を加えた結果、どんな素材であっても、その良さが全く生かされていない「油べったり唐辛子まみれ」、どこで食べても似たり寄ったりの「中国料理」になっています。

でも、おいしい「自信作」を提供しようと、100円の焼ソバに魂を込めて真剣に料理してくれていることは伝わってきます。単純に筆者が味音痴なだけなのでは、と思ったりもしますが、いや、こういうことが何千回も繰り返されれば、やっぱり「中国人の味覚は大丈夫なのか?」と結論するしかありません。

 

筆者は、いまだに中国の食事には順応できていないようで、どこで何を食べても、かなりの確率で下痢をしてしまいます。これも筆者特有の症状なのかもしれませんが、各地で出会う百戦錬磨の世界貧乏旅行中のバックパッカーたちも、中国ではたいてい同じ「洗礼」を受けていることを考えれば、ことさら特別なわけでもないでしょう。

そうなると、当然トイレに駆け込まねばならないのですが、中国の大衆食堂にはそもそもトイレがないことも多く、店を飛び出して必死で探さなくてはなりません。そしてやっと見つけたトイレは…(これ以上は言わないほうがいいでしょう)。

中国で外食をした場合、このような苦労と心労がセットになって襲いかかってくるわけで、「楽しく食事をする」という気分にはなかなかなれません。

素材そのものに問題があるのか、保存状態や輸送方法が悪いのか、(油や調味料を大量に加えるなどの)調理の方法が間違っているのか、食事をする環境を含め、全てが不衛生すぎるのか…。筆者の経験した限りでは、これは普通の旅行者が行かないような大衆食堂に限った話ではなく、値段やレストランの格で多少の違いはあっても、たいていの店が何らかの問題を有しているように思われます。

もっとも中国でも、家庭内のキッチンやトイレはけっこう清潔なのです。そして、家庭で作る料理をふるまってもらうと、(おいしいかどうかは別としても)清潔さ、衛生を保つのにかなり気を使っているように感じます。それがどうして「公共の場」ではまったく生かされないのか、不思議でなりません。