日本の憲法学者が分析したがらない「砂川事件の3つの神話」を検証

事態はかなり深刻かもしれない…
篠田 英朗 プロフィール

たとえば矢部宏治氏は、ベストセラー『知ってはいけない』(講談社、2017年)の中で、「この『事件』が日本の司法の歴史にとって、最大の汚点であることは間違いありません」と述べ、田中長官は「ひどい『司法破壊』を行っていた」と糾弾し、「日本の最高裁は、まだ誕生してから一度も正常に機能したことがない」と断定した(144-145頁)。

さらに白井聡氏になると、ベストセラー『国体論』(集英社、2018年)で、アメリカが田中長官に「圧力」をかけ、田中長官が「おもねった」、といった描写で紹介したりもした(「白井聡『国体論』の反米主義としてのレーニン主義」)。

しかし「共通の友人宅」が、秘密結社の陰謀の集会を示唆しているなど考える根拠はなく、むしろ単なる欧米式のホームパーティーのようなものであっただろうと考えるほうが、自然だ(田中長官はカトリック信者であった)。

「短時間の非公式会話」も、米国大使館員がどこかで田中長官に遭遇したときに(あるいは積極的に遭遇を試みたときに)、田中長官に対して最大限の「取材」をした、という程度のニュアンスしか感じさせない表現だ。

米国大使館員が田中長官の動向に関心を持っていたのは確かだとして、また外交儀礼も果たさなければならない田中長官が米国大使館員と会話をしたのは確かだとして、だからといってそれだけで「司法破壊」「日本は奴隷」などと騒ぎ立てるのは、やり過ぎだろう。

非常によくないのは、米国の公電文書で「I gather」などという表現で、駐日米国大使が「推測」を付け加えている部分を、砂川判決に批判的な運動家の方々が、あたかも田中長官が実際に語ったに違いないことだと根拠なく断定してしまうことだ。

翻訳の問題は、先に特別抗告を棄却した東京高裁でも指摘されていた。再審を要求した被告人側の弁護士は、政治的著述で有名な天木直人氏をあえて翻訳者として設定してきた。

それに対して東京高裁は、私的な場面での会話、とでも訳すべき「in private conversation」をあえて「内密の会話」と訳したりする天木氏に苦言を呈した。会話の内容が「我が国の刑事手続きにおける語ったものに過ぎない」ものだとすれば、秘密の謀議の会合が存在していたことは確証できない、と指摘した。

また東京高裁は、米国大使が推察しているだけなのが明らかである文章についてまで、天木氏が「田中長官が述べた」と訳したことにも、苦言を呈した(http://datehanketsu.com/chisaikettei.pdf)。 

非常に妥当な指摘だ。今現在見つかっている資料だけでは、田中長官が裁判所法に違反したとか、判決が破綻していた、といった結論までは、導きだせないだろうと思う。