ある日突然、ほぼ全員が「無戸籍」に…沖縄戦後の驚くべき実態

女が男に、子供が大人に、偽装夫婦も…
井戸 まさえ プロフィール

1972年(昭和47年)5月15日、沖縄は本土に復帰した。

久貝が「表示記号的なもの」とした「沖縄県」は復帰のための特別措置法によって、当然に地方自治法に定める県として存続することとなり、また沖縄の市町村は同法の規定により市町村長となることとされた。

同時に、早くから本土の制度、表記と事実上一体化していた沖縄の戸籍制度は、登記制度と同様に、「何一つ手を加える必要もなく」そのままの形で本土の法体制下に移行したのだ。

「現地関係者等の長い間の辛酸努力の賜物であり、また人々の胸中に秘められた悲願の達成でもあった」と新谷は記している。

〔PHOTO〕gettyimages

「本当の私じゃない」戸籍で生きる人々

こうした経過を辿って復活した沖縄の戸籍について、当時何が起っていたかも含めて、具体的な事例をみてみよう。

「私の戸籍? 見せてもいいけど、本当の私じゃない。それでもいいのかい?」

そういいながらも、自分の戸籍謄本、原戸籍、父親の除籍簿まで用意して見せてくれたのは現在那覇市に住む玉城ヤエだ。彼女も沖縄戦による戸籍焼失で「無戸籍」を経験したひとりだ。

沖縄戦では多くの子どもたちが家族を失い孤児となった。ヤエの親もなくなり、兄弟とはぐれたままだ。

当時住んでいた糸満市には子ども専用の収容所があって、ヤエもそこに収容された。収容所には子とはぐれた親が子どもを捜しに、また子を失った親がその代わりとなる子どもたちを引き取りに来ていた。

「孤児たちは檻の中に入れられたような状態さ。みんな必死で手を振って『私を選んでー』ってやる。なるべくにっこり笑ってっさ。そうすると、『この子にする』って、来た大人が言って、どんどん新しい親が決まって行く。先に決まって収容所から出ていく子どもたちが、本当に自慢げで羨ましくて、私も『選んでー!選んでー!』ってしたさ。遅れちゃならない、(収容所に)取り残されたら大変だと思って」

ヤエもほどなく、ある女性に引き取られる。戸籍を作る手続きに連れて行かれる。

その時はよくわからかなった。

後から見れば、そこに書かれていたのは父も母も、兄弟も、全く知らない人だった。

そもそも「ヤエ」という名も、それまでの自分とは全く関係ない名前だった。

ヤエを引き取った女性は援護金欲しさで、わざわざ両親が死んだ家族を選んで、新たに戸籍を作ったのだった。

「『トシエ』とか『トシ』とか、そんな名前だったと思うけど、覚えていない」

3歳か4歳だったのだろう。「ヤエ」には新しい名前と誕生日が与えられた。新しい誕生日は昭和16年1月だった。

女がいなければヤエは生きていくことはできなかったが、自分の養子にするわけではなかった。家には同じような立場の女の子どもたちが幾人かいた。

女には情夫がいて、女の家にいる子どもたちは年頃になると次々にその男のもとに行かされた。ヤエは怖くなって、自分の番がやってきそうだという時に家出をする。不思議と女は追ってこなかった。

それから、ずっとこの「戸籍」で生きている。75歳、いや78か79歳にならんとする今まで、ヤエにかかわった人は誰ひとり入っていなかった「戸籍」で、である。