チップの上の「生命」

生命1.0への道 第11回
藤崎 慎吾 プロフィール

「生命体」の条件は代謝すること

最小哺乳類システムの完成イメージ図を見てみると、非常に精巧ではあるが、ちっとも生命っぽくはない(図4)。まるで「機械」というか、むしろ生命であることを拒否しているようにさえ思える。

  図4 最小哺乳類システムの完成イメージ図(提供/田川陽一氏)
「シリンジポンプ」から押しだされた嫌気性の液体培地(黄色い管)は細菌のいる「腸管」を流れ、最後には「糞」として排出される。赤い管では好気性の液体培地が循環している。途中で詰まってしまわないように、「ペリスタルティックポンプ」で管を潰したり戻したりしながら一方向へ送りだしている。肝臓と膵臓の細胞は、セットで培養されている。腎臓の機能はチップ上の細胞だけだと能力的に無理なので、人工透析装置で代替している。神経系や心臓のチップには電極をつけてあり、それぞれ神経や心筋の活動を測定している。つまり脳波と心電図をとっているのに近い。

そこは、けっこう重要で、我々が漠然と思い描く「生命」と、現実に生命を生命たらしめている「システム」との間には、おそらくギャップがあるのだ。したがって田川さんも「生命」という概念的な問題と、見たり触ったりできる「生物」や「生命体」あるいは「生命システム」とは、ごっちゃにしないほうがいいと考えている。このへんは連載の最後のほう(といっても、あと3回くらいだと思うが)で、改めて議論してみたい。

いずれにしても田川さんは最小哺乳類システムを「人工生命体」と規定している。とりあえず見てくれや印象は、どうでもよい。重要なのは「代謝」をすることだ。それこそが「生命体」の条件だと考えている。哺乳類の場合、代謝とは外から有機物(栄養)と酸素を取り入れてエネルギーをつくりだし、体の構成物質を古いものから新しいものへと、どんどん入れ替えていくことだ。これを物理学的な専門用語では「非平衡状態」と呼ぶ。

死んでしまえば、生命体といえども普通の物質と同様な「平衡状態」となる。すると、もはや体がリニューアルという形でつくり続けられることはないから、最終的には分解してしまう。

代謝は細胞レベルでも行われているが、哺乳類という多細胞の個体レベルでは、主に肝臓で行われている。肝臓は食物から得た糖やタンパク質、脂肪を、体の各器官が使えるグリコーゲンという形に変えて貯蔵し、必要に応じてエネルギーとして供給する。またタンパク質を合成したり、有害な物質を解毒したりと多彩な機能をもっている。

「極論ですが、肝臓さえあれば代謝のほとんどはできているので、生命体システムとしての大部分は、それで代替できるだろうと思っています」と田川さんは言う。

これは納得できない話ではない。たとえば第5回第10回で紹介した通り、最初の生命も実は鉱物表面で起きている一連の「原始代謝」と呼びうる化学反応が、原始細胞あるいは原始タンパク質などに取りこまれて誕生したとする説があるからだ。

個人的な印象では、この「メタボリズム(代謝)ワールド」とも呼ばれる仮説は、まだ「RNAワールド」や「リピッド(脂質)ワールド」ほどではないものの、かなり人気が出てきた気がする。とくに生命を「モノ」としてではなく、環境も含めた「関係性」あるいは「システム」として捉える立場とは、親和性が高い。

田川さんもその立場だとすれば、見てくれにこだわらないのは当たり前だ。また、これまでにも何度か出てきた「境界があって、代謝をし、自己複製をする」という生命体の「条件」ないしは「特徴」に照らし合わせると、最小哺乳類システムには「境界」と「自己複製」の2つが欠けている。

境界のほうは何か専用のケースに入れればすぐにできるが、自己複製はいかんともしがたい。それでも代謝さえあれば、ほとんど生命体というのであれば、問題ないことになる。

「たとえば生殖能力がなくても人間は人間とみなされます。なので子孫を残せなければ生命じゃないというのは、危険思想だと思っています。生命体かどうかというのは、一世代で議論すべきでしょう」と田川さんは主張している。

細菌は「生命」ではない!?

ただ、こうした話の流れで、田川さんからいささかショッキングな言葉が出た。

「細菌は単細胞ですが、一般的に細胞1つでも生命とみなされています。しかし私はそう思っていません。『生命』は概念的なものであり、挑発的に極論すれば、細菌に生命なんてないと思います。生命と呼べるのは、やはり神経管(神経系)ができてからではないでしょうか」

神経管というのはヒトを含む脊索動物の発生過程で現れる管状の構造で、いずれ脳や脊髄といった神経系になる。進化史上、最も原始的な脊索動物(ホヤやナメクジウオなど)が登場したのは、5~6億年前のようだ。これまで生命の起源と言えば約40億年前と言ってきたのが、だいぶ最近のことになってしまう。

生命1.0がナメクジウオ(写真9)だとすると、神経管のできないタコやイカは生命0.9くらいか? 連載を始める前には、このような主張が出てくるとは予想もしていなかったが、非常に面白い。

個人的には細菌を非生命とみなすのには抵抗がある。ウイルスですら、もしやと思うくらいだ。しかし一般的には、案外「そんなの当たり前じゃん」と言う人が多いのかもしれない。記事の最後でアンケートをとってみよう。

【写真】ナメクジウオ
  写真9 最も原始的な脊索動物とされるナメクジウオの仲間(ニシナメクジウオ)

ただ、ここで田川さんが「生命体」ではなく「生命」と言っていることに留意しなければならない。

確認してみると「細菌(の集合体)は生命体としては認めるけれども、そこに生命はない」との答えだった。かなり難しい議論で、やはり後回しにしたいところだが、もう少し続けよう。田川さんは次のようにも言っている。

「脳がなければ生命ではない。生命であることを認識するというか『所有する』ことが大事だと思います。細菌は所有していない。ただ機械的に増殖していくだけ。でもバイオフィルム(菌膜)などを形成している細菌が集団で、お互いにコミュニケーションをとっていれば、何か生命っぽいものがあるような気がしないでもありません。いずれにしても『菌1個で生命を語るな』というのが私の考えです」

まとめると代謝システムをもっていることが生命体の条件であり、その上でさらに神経系をもち、自らを生命だと認識しているものが生命、ということになるだろうか。人間の体でも細胞の1個1個は生命ではないし、生命体ですらない。また植物はどうかというと、生命体としては認めるが、神経系はないので、生命だとは言いたくないようだ。

ここで、ちょっと思いだしてほしいのは、臓器チップに組織構造をつくるところで「たかが体の中の細胞といえども、ちゃんと人間と同じような意識を持っているんじゃないでしょうか」と田川さんが言っていたことだ。明らかに矛盾しているが、これはあくまで比喩的な表現ととらえておきたい。

人間は誰しも自分のことを生命だと認識している。これは聞けばわかるので、自明なことだとしよう。だが他の神経系をもつ動物が自らを生命と思っているかどうかは、いかにして知りうるのか。

どこまで信頼できる報告かはわからないが、たとえばチンパンジーやゾウ、カラスといった知能の高い、群れで生活する動物は、しばしば仲間の死を悼むような行動をみせるという(動画1)。これがほんとうに悼んでいるのであれば、彼らは「死」ひいては「生」の意味を知っていることになる。

おそらく、こうした憶測が限界だろう。相手が両生類や魚類になってしまったら、もう何を考えているかなんて知りようがない。となると両生類や魚類が生命かどうかは、わからないということになる。

  動画1 仲間の死を悼んでいるように見えるゾウの映像(https://youtu.be/Ku_GUNzXoeQより)