チップの上の「生命」

生命1.0への道 第11回
藤崎 慎吾 プロフィール

細胞だってパニックになる

昆虫について学びたい気持ちはあったものの、田川さんは結局、工学分野に進んだ。大きなくくりで言えば、専門は発生工学や分子生物学である。

大学院で「ノックアウトマウス」という、特定の遺伝子を働かなくした実験動物(注3)をつくっているうちに、ES細胞を扱うようになった。するとマウスなどの遺伝子を操作するだけではなく、ES細胞の万能性を利用して、さまざまな臓器(の細胞)を作ってみたら面白いのではないかと思いついた。

注3)ある遺伝子の機能を推定したり、新薬を開発したりするために使われるモデル動物で、500種類以上がつくられている。田川さんがつくった「インターフェロン(ウイルス抑制因子)γ」という物質を合成できなくしたノックアウトマウスは、世界的に利用されている。こうしたマウスは、まず目的の遺伝子を壊した(ノックアウトした)ES細胞を受精卵に導入し、正常な細胞とノックアウトされた細胞とが混じった「キメラマウス」を誕生させ、それらを何世代か掛け合わせることによってつくられる。

そのうちに信州大学の医学部から助手の声がかかり、そこで実際にヒトのES細胞から分化させた肝臓や心臓を培養しようと準備を進めた。文部科学省にヒトES細胞を使いたいという申請も出したが、その審査に時間がかかり、ようやく許可が下りたときには、東工大へ移らなければならなくなっていた。

そこで、また一からやり直し、今ではヒトとマウス両方のES細胞で、それぞれの臓器を培養する実験を行っている。

培養というと素人の頭には丸いシャーレに寒天のような培地を敷いて、その上で細胞を増やすというイメージがまず浮かぶ。ES細胞自体を培養したり、そこから各種の臓器細胞を分化させたりする過程では、そのようなシャーレも使われるのだが、そこから先はかなり異なっている。専門的には「マイクロ流路培養デバイス」あるいは「マイクロ培養チップ」などと呼ばれる、小さな容器を使うのだ。

形や大きさはさまざまだが、田川さんの研究室には直径2cmくらいの平たい円筒形をしたものや、3cm角くらいの板状のもの、2cm角くらいのサイコロ状のものなどがあった。どれも透明で、中には細胞を培養するための窪みや、液体の培地を流すための溝といった構造がある。それらのチップが、一回り大きな容器に収められている場合もあった。こうしたデバイスは医療機器を扱う企業と共同開発しており、すべてオリジナルだ(写真5)。

【写真】マイクロ培養チップ
  写真5 空のマイクロ培養チップをいくつか管でつないだ状態

現在、田川さんはマウスやヒトの肝臓や膵臓、腸管、心臓、神経といった臓器や組織を、それぞれチップの中で培養している。ほとんどは単体で、まだつなげられてはいない。とはいえ各チップの中に構築された臓器や組織は、それだけでも創薬などに役立てられるし、生命についてのさまざまな知見をもたらしてくれる。

たとえば肝臓の細胞は、ただシャーレなどの上で培養しても臓器の役目を果たすことはない。そもそも肝臓は「肝細胞(肝実質細胞)」だけではなく、「内皮細胞」など何種類かの細胞によって構成されている。

やや単純化して言うと、肝臓の中には「類洞」と呼ばれる毛細血管が、縦横無尽に走っている。その類洞の壁が内皮細胞で、平べったい形をしている。そして肝細胞は内皮細胞の上から「ディッセ腔」という隙間を隔てて、類洞を包むように並んでいる。

その外側では別の類洞を囲む肝細胞と接しているのだが、隙間に「微小胆管」という流路が通っている。つまり断面を見ると、上から下(あるいは外側から内側)へ微小胆管、肝細胞、ディッセ腔、内皮細胞、類洞の5層がある(図1)。

  図1 肝臓の「小葉」と呼ばれる部分の構造。中心静脈から出た類洞(毛細血管)の周囲を、内皮細胞と肝細胞が囲んでいる

人が何か薬を飲んだとすると、腸から血中に入って門脈を通り、肝臓の類洞に運ばれ、内皮細胞を経由して、いったん肝細胞に取りこまれる。そして不要な成分は微小胆管に捨てられ、腸に戻されて体外へと排出される。必要な成分は類洞に返されて、体を循環していくことになる。

したがって類洞は「上水道」、微小胆管は「下水道」に当たる。肝細胞には目も耳も鼻もないが、どちら側に上水道や下水道があり、どちらに同じ肝細胞の仲間がくっついているかを、ちゃんとわかっているらしい。だから機能できる。

このような組織構造をつくらないまま、ただ容器に撒いて培養しても、肝細胞には上下水道がどこにあるかわからない。すると薬を与えられても、それを取りこんでいいのかどうか、もし取りこんだとしても、いらないものをどこへ排出したらいいのか迷ってしまう。迷えば溜めこむことになるため、いずれ肝細胞は死に至る。

だからチップの中でも肝細胞と内皮細胞を一緒に培養し、類洞や微小胆管に相当する流路をつくってやらなければならない(図2)。

  図2 肝臓チップの構造(A)と実際に使われるチップ(B)。直径は2cm程度。「スキャフォールド」は細胞がくっつくための足場(膜)となる(提供/田川陽一氏)

腸も同じで、あの長い管の「内」と「外」を分けているのは絨毛のある「上皮細胞」だ。最近、よく話題になる「腸内細菌」は、その絨毛の上というか周辺に群がって暮らしている。よく知られているのはビフィズス菌や乳酸菌、大腸菌などだが、ヒトの場合で1000種類くらいあるという。この上皮細胞にも口から腸に入ってきたものを選別する機能があって、吸収した物質のうち必要な栄養などは体の中(すなわち腸管の外)に出され、不要なものは腸管の中に戻される。

したがって培養するときにも、この内と外をつくってやらなければならない。腸管の中は酸素のない嫌気的な環境で、腸内細菌はそこに適応している。だから腸管内に当たる流路には、嫌気的な液体培地を流してやる。逆に腸管の外に当たる流路には、酸素のある好気的な培地を流す、といった具合だ(図3、写真6)。

「たかが体の中の細胞といえども、ちゃんと人間と同じような意識を持っているんじゃないでしょうか」と田川さんは言う。
「自分の位置というのは絶対に必要だと思う。それがなければ細胞であってもパニックになる。したがって、きれいな培地が流れている場所と、汚い培地が流れている場所がちゃんとわかるようにしてやれば、安心して細胞も働いてくれます」

  図3 腸管チップと、その構造(提供/田川陽一氏)
【写真】培養している腸管チップ A全体A
【写真】培養している腸管チップ CシリンジポンプB
【写真】培養している腸管チップ D老廃物C
  写真6 位相差顕微鏡で観察しながら培養している腸管チップ(A)と、そこに液体培地を少しずつ流しているシリンジポンプ(B)、そしてチップから排出された老廃物(糞)(C)