頭のいい人が「音読と書き写し」を習慣にしている理由

「読めない」は「わからない」と同じ
佐藤 優 プロフィール

読めないことは語れない

書評を通じて思想について語る技法としては、ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』に関する考察が秀逸だ。

〈わかりやすくいえば、本書を読むことは「書物の発生」を解読することなのである。

そのエーコが見えている相互発生のプロセスとは、相互発生を封印したり捩じまげたりするプロセスとして歴史のなかであらわれる。そこを『薔薇の名前』を読みすすむ読者が誤読を含めて暗示的に解読するだろうという読みが、エーコのそもそもの執筆動機だったわけである。

そうなのだ、本書のテーマは読みなのだ。これはやはりエーコにしかできない芸当である。メタ語り部としての作者の特権だ。

けれども、エーコはこの語り部の特権を手だれた推理作家やホラー作家のようにふりかざすのではなく、実在の歴史のプロセスに戻す「もどき」の手法の奥行を知っていた。

 

そのためにエーコは、本書の舞台の奥座敷にスクリプトリウムと文書庫(螺旋型塔内図書館)をおいた。そして、その図書迷宮のひとつひとつの書物が、あたかも当時のカタリ派やヴァルド派や小兄弟派やパタリーニ派やドルチーノ派などの、ようするに当時の異端各派の思索内容とコンテキスト対応しているかのような擬態的な錯覚を按配しておいたのである〉

『本から本へ』を通して松岡氏は読むことの重要性を一貫して説いている。人間には、読む、聴く、書く、話すという4つの基本的な能力がある。外国語の学習について考えてみよう。バイリンガルの人を除いて、聴く力、書く力、話す力が読む力を超えることはできない。これは自国語で高度な知的営みをするときにも言える。

読んで理解できないことは、聴いても理解できない。当然、その問題について、書くことも話すこともできない。読むことが知の天井を形成するといってもよい。

知力を強化するために必要なのは第一義的に読書力だ。しかし、本を読むことは、読者が独自の解釈をすることである。著者の意図と読者の解釈の間には必ずズレが生じる。このズレから新たな知的生産が行われるのである。

このズレを意図的に創り出すのが編集だ。松岡氏にとって編集とは「もどき」なのである。これはキリスト教神学がアナロジー(類比)の思想によって基礎づけられていることを想起させる。

それだから松岡氏の編集工学は、評者のようなプロテスタント神学を基礎教育とする者には馴染みやすいのだ。

『週刊現代』2018年7月21・28日号より