頭のいい人が「音読と書き写し」を習慣にしている理由

「読めない」は「わからない」と同じ

知的訓練のための音読

松岡正剛氏は、ルネッサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチのような、文科系、理科系、芸術を総合的に体得した知識人だ。著書の『本から本へ』のなかで松岡氏は、読書案内という形態を取りながら、学習法を指南する。同時に大人にとって必要な教養が何であるかを具体的に示す。

例えば、音読と黙読の関係について松岡氏はこう説明する。

〈そもそも音読・黙読問題は、人類が長きにわたってオラル・コミュニケーションと音読社会を体験してきたということ、および、幼児や子供が会話と音読からこそ言葉のコミュニケーションの習得を深化させているということに関係がある。

ということは、第一には、その民族や部族やその国の文化に、いったいどの程度の「声の文化」や「耳の文字」が重視されているかということが問われるべきなのだ。

 

それとともに第二に、その個人やその家族やそのコミュニティが、幼児期や子供のころにどのくらい「声による言葉」や「耳による学習」をインプリンティング(刷り込み)してきたかということも問われるべきだった。

この二つのことをもっと横断的に重ねて考察すれば、幼児がどのように音読学習から黙読慣習へと成長(あるいは転倒)していったのかというような、新たな学習の秘密をめぐる研究も浮上するはずだろう。

けれどもそうなるには、音読をすることが複合知覚力ともいうべきを励起させているのだといったような、そういうこともあきらかになってこなければならない。いや、音読だけではない。筆写にも複合知覚力を励起させるものがある〉

音読の重要性は、子どもを対象とした絵本の読み解きに限定されない。大人にとっても、知的訓練としてとても重要なのだ。

評者の周辺で、音読や筆写を行う職業作家が数人いる。いずれもロングセラー作家だ。この人たちは音読と筆写によって複合知覚力を強化しているのであろう。松岡氏はこのことを認識論に踏み込んで考察する。

〈ひるがえって、そもそも認識(IN)と表現(OUT)とは、そのしくみがまったく異なる知的行為になっている。

「INするしくみ」と「OUTするしくみ」とはそうとうに異なっている。そのため、いろいろのことを見聞きし、いろいろ体験したことがいくら充実したものであっても、それをいざ再生しようとすると、まったく別の困難に出会ってしまう。

アタマの中のスピーチバルーン(吹き出し)に浮かんだ実感や感想をいざ言葉や絵にしてみようとすると、どうもその感想どおりではなくなってしまうのだ。

その別々のしくみになってしまっている認識INと表現OUTを、あえて擬似的にであれ、なんとかつなげて同時に感得してみようとするとき、ひとつには音読が、もうひとつには筆写が有効になってくる。

なぜ有効なのかといえば、おそらく音読行為や筆写行為が千年にわたってINとOUTの同時性を形成してきたからだ。音読や筆写をしてみると、その千年のミームともいうべきがうっすらと蘇るからなのだ。ぼくはそうおもっている〉

この言説は優れた教育論でもある。教育とは、人の無意識の領域で眠っている能力を蘇らせることだからだ。