血糖値が「見えすぎる」SFみたいな最新機器で人類はこう変わる

変化する私たちの「身体観」
太田 充胤 プロフィール

血糖の「見える化」が生む憂鬱

「先生、リブレつけてから血糖値がずっと高いままで、もうどうしたらいいか…」

悲痛な声で電話をかけてきたのは、数日前にリブレを導入した70代前半女性のBさん。やはり1型で、コントロールが難しいが、ご本人があまりそのことを気にかけていなかったタイプの患者さんだ。

ご年齢も考えれば、先のAさんのようにうまくはいかないことはわかっていた。どちらかと言えば、治療者がより詳細に血糖推移を把握し、治療を調節するための一手だった。

聞けば確かに血糖値は高いが、もともとが高かった方なのでこちらにすれば驚きはない。しかし問題は、それが彼女にとってはまったく予想外の値だった、ということである。

いつもは朝一番しか血糖値を測っていなかった彼女は、自分の血糖値が食事の後に大きく上がったまま一向に下がってこないことを知り、たいそう驚いた。次第に彼女は、食事をとること自体が怖くなっていった。

「もう血糖値が上がるのが怖くて怖くて、昨日からご飯食べてないんです…」

幸いBさんの血糖はその後の治療調整で安定し、最終的には「リブレがあってよかった」と言っていただけた。こういうケースはその後も何度か経験し、そのたびに反省した。「血糖値高いと思うけど驚かないで」とか、「あまり血糖値ばかり気にしないで」とか、あらかじめ言っておくだけでずいぶん違ったかもしれない。

十分な知識を持たない患者さんを、新しいテクノロジーや豊富すぎる情報はしばしば強迫的に追い詰める。むやみによく「見える」のも考えものである。

 

糖尿病は「自分の身体」の外にある

誤解のないように明記しておくと、別にテクノロジー批判をするつもりは毛頭ない。むしろ立場上、リブレのようなテクノロジーに寄せる期待は非常に大きいし、その発展に警鐘を鳴らす理由は筆者にはない。

とはいえ、そのテクノロジーの登場が人間にとっていったい何を意味するのか、きちんと考えておく必要はあるだろう。単に「便利になった」「治療効果があがった」ですませてはもったいない。

リブレについて言えば、本質的な変化は利便性の向上でも治療効果でもなく、生体情報の「見える化」が起こったことだ。血糖値の推移がつぶさに知覚できるようになったこと、すなわち、糖尿病が「自分の身体」の一部として知覚できる病になったこと。治療効果はあくまでもその結果に過ぎない。

当事者研究で知られる熊谷晋一朗氏の言葉を借りれば、私たちは「自分の身体が次にどのような作動をするかについての予測モデル」を構成して生きている(『当事者研究の研究』)。

「手を伸ばせば、その壁に指先が触れるだろう」。「壁に触れれば、指先に冷たさを感じるだろう」。行動とその結果について、こうした予測がまちがいなく成り立つ範囲のことを、人は「自分の身体」だと知覚する。

逆に言えば、自分では知覚できない異常について指摘されても、それを自分の身体に起こった異常としてとらえることは難しい。この意味で糖尿病を含めた生活習慣病の話は、まちがいなく自分の身体のことなのに、感覚としてはいつも自分の身体の外にある。

自分の体重が多いことは体重計に乗れば(あるいは鏡を見れば)すぐにわかるが、血糖値が高いことは血液を調べてみなければわからない。したがって、肥満の自覚がない肥満症患者さんはめったにいないが、糖尿病の病識がない糖尿病患者さんはいくらでもいる。

「わたし、糖尿病なの? ほんとに薬飲まなきゃいけないの? 痛くもかゆくもないし、別に困ってないんだけど…」

医療者であれば誰でも、こんな風に戸惑う患者さんに出会ったことがある。そしておそらく、リブレのインパクトが最も大きいのも、こういうタイプの患者さんである。