昭和20年4月28日、宜蘭基地より第十六大義隊出撃の直前。飛行服姿、左から2人めの小柄な搭乗員が長田利平さん

4度の特攻から生還した男が「刑事」として生きた激動の戦後

失業した3906人の戦闘機搭乗員たち
太平洋戦争の最中、十代半ばで海軍の搭乗員養成機関である予科練を志願した一人の若者がいた。飛行機の操縦を覚え、いざ敵機を戦わんと戦場に出た途端、特攻隊員に指名され、4度出撃するが、一度も敵艦に遭遇することなく、敗戦を迎える。まだ19歳の、飛行機のことしか知らない若者は、身一つで焦土と化して大混乱の社会に放り出されてしまう。ゼロからの人生のリスタートに、彼は刑事として犯罪捜査に生涯を懸ける道を選んだ。あれから73年、92歳となった男は、この平成の世に何を思うのか。

多くの下士官兵たちが警察官への道へ


旧日本海軍の主力戦闘機として、いまなお語り継がれる「零戦」(零式艦上戦闘機)が、海軍に制式採用されたのは、日中戦争(当時の呼称は支那事変)が泥沼化していた昭和15(1940)年7月24日。いまから78年前のことである。零戦は、それから5年後の昭和20(1945)年、日本が連合国に降伏し、太平洋戦争(大東亜戦争)が終わるまで第一線の戦闘機であり続けた。総生産機数は1万機を超え、これは日本製の飛行機として、今後も破られることはないであろう最多記録だ。

 

海軍の戦闘機搭乗員の戦没者は4330名、うち4000名近くが零戦によるものである。終戦時、日本海軍には零戦1166機をはじめ、1709機の戦闘機(旧式機はのぞく)と3906名の戦闘機搭乗員が残存していたが、搭乗員の多くは実戦経験がなく、「歴戦の」と枕詞のつくベテランはほんのひと握りに過ぎなかった。

拙著『証言 零戦』シリーズ(講談社+α文庫)は、そんな生き残り搭乗員のうち、実戦経験のある人を中心に、23年にわたって数百名を訪ね歩き、彼らがくぐり抜けてきた激動の戦中、戦後の体験にスポットを当てた証言集である。

 
長田利平さんの他、真珠湾作戦に参加し、戦争末期は紫電改を駆って敵機n邀撃にあたっていた佐々木原正夫さんなど6人の搭乗員のインタビューを収録

登場人物は、日本初の敵機撃墜を果たした搭乗員、日本初の編隊アクロバット飛行チームの一員、そして、零戦が「向かうところ敵なし」だったデビュー当時から、南太平洋やオーストラリア上空での激闘を経験した搭乗員、大戦末期、特攻隊員として出撃した搭乗員まで多岐にわたる。戦後の歩みも人それぞれで、人間、全てを失ったところからの再スタートで、ここまで逞しく立ち上がれるものかと、インタビューの都度、私自身も目を開かされる思いがした。

戦中、アメリカ軍の戦闘機乗りが全員、少尉以上の士官だったのに対し、日本海軍では養成コースの仕組み上、下士官や兵の搭乗員が大半を占める。その殆どが、高等小学校卒か旧制中学中退で海軍を志願した少年で、頭脳明晰、身体頑健ではあるものの、職業経験がないので飛行機に乗る以外につぶしはきかない。だが、GHQの方針でいっさいの航空活動を禁じられた日本人がふたたび空を飛べるようになるかどうか、当時は誰も知る由がない。

生きてゆくために、ある者は家業を継ぎ、ある者は農地を開拓し、ある者は空襲の焼け跡に職を求め、またある者はささやかな事業を興し、それぞれに第二の人生を歩み始めるが、彼らの進路をたどってゆくと、警察官になった者が少なくないことに気づく。軍隊で厳しい訓練に耐え、戦闘をくぐり抜けた旧軍の下士官兵にとって、公務員として定収入の見込める警察官は、軍人としての経験が生かせる、まさにうってつけの職業だった。

これは、明治初期、警察制度が発足した当時の邏卒、捕亡吏(のちの巡査)に、かつての下級武士が多かったという事情に通じるものがあるのかもしれない。