「わかりやすさ」とは何か?〜『相手に「伝わる」話し方』を考える

現代新書 特別エッセイ「自著を語る」
池上 彰 プロフィール

それまでの私は、目の前のニュースをどう料理してわかりやすくしようかと考えることに夢中で、そのための技法などには無頓着でした。それが、堀沢さんの提案によって、自分の仕事の手法を分析できるようになりました。

自分の仕事を他人に解説しようとすることで、自分を客観的に見られるようになったのですね。ありがたいことです。

「わかりやすさ」が求められる時代

この本が出版されたのが2002年8月のこと。その後、さまざまな出版社から、「わかりやすい」を謳い文句にした書物が多数登場するようになりました。時代が求めていたのでしょうか。講談社現代新書の編集者が慧眼だったのですね。

 

「わかりやすさ」を時代が求めているのです。世の中がますます複雑化し、専門化する中で、多くの人が、「わかりたい」と願っています。でも、わからない。これがフラストレーションになっているからです。

とりわけ国民の多くが、そんな気持ちになったのが、2011年3月のことではなかったでしょうか。東日本大震災によって東京電力福島第一原子力発電所の事故が起き、ベントや水素爆発によって、多量の放射性物質が飛散しました。この事態に、多くの人が事態を理解しようと、テレビをつけました。

ところが、そこに登場する専門家の先生たちは、専門用語を使って、わかりにくい説明をするばかり。不安に駆られてテレビをつけた視聴者は、わからないことによって、一段と不安に苛まれるようになってしまいます。

原子力に関する知識は、一部の専門家のものであってはならないのです。

万人が身をもって養うべき「教養」

このことを、すでに1964年に喝破していた人物がいます。講談社の野間省一です。講談社現代新書の刊行にあたって、彼はこう書いています。

「教養は万人が身をもって養い創造すべきものであって、一部の専門家の占有物として、ただ一方的に人々の手もとに配布され伝達されうるものではありません」

この言葉から、私は自分の高校時代を想起します。高校の図書館の書棚に並んでいた新書の数々。これこそが、「身をもって養」うべき「教養」の材料だと考え、片端から読んでいった日々を。

しかし、どうすれば自ら養うことができるのか、当時は「道に迷っているばかり」(阿久悠作詞・森田公一作曲「青春時代」の歌詞より)でした。

道に迷わずに進むためには、どうすればいいのか。兼好法師は『徒然草』の中で、「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり」と述べています。

教養を自ら養うことができるように、先輩として、その技法を伝授する。それが先達の役割なのでしょう。

その一方、「わかりやすさ」を求めるあまり、乱暴な要約や決めつけによって、正確さに欠ける解説も横行するようになっています。これは危険なことです。

そんな危険を避けつつ、多くの人が、物事をわかりやすく伝えることができるようになれば、「道を教える」ことができる人も多くなるでしょう。そのための「道案内人」を養成する一助になる。それが私の役割のような気がしています。

出典:『講談社現代新書 1964〜』