倉敷市真備支所の駐輪場

豪雨被災地・真備町で、倉敷出身の編集部員が目にした現実

暑さと泥との過酷な闘い

いったい、何百メートル続くのだろう。国道486号線の高架に沿って、人の背丈ほどの「土手」ができている。

折れた木材。割れてトゲが突き出した木の板。鉄の引き戸。窓枠。ベッドとマットレス。学習机。椅子。座布団。流し台。洗濯機。じゅうたん。花柄のついたタンス。ぬいぐるみ。額縁に入った写真。幼児の遊具。フリスビー。アンパンマンが描かれたゴムボール。

すべてが、泥にまみれて真っ白になっている。

田んぼに大型トラックがお尻から突っ込んでいる。崩れた堤防の残骸だろうか、さしわたし2メートルくらいのコンクリートの塊がごろごろと転がっている。歩道のフェンスは飴細工のように曲がって千切れている。中古車店に並ぶ軽自動車には、ぜんぶ塗り込められたように泥がこびりついている。

ただ息をのむ私たちボランティアを乗せたバスが、真備町の中心部へと入っていく。

 

乾ききった真備の町

7月7日の朝、私はTwitterで荒れ狂う高梁川の動画を目にして、呆然としていた。子供のころ何度も釣りに出かけた穏やかな川は、コーヒー牛乳のような色に変わり、轟々と音を立て荒れ狂っていた。見たこともない濁流だった。ただごとではない、と思った。

私は真備町の隣町で生まれ育った。実家は高梁川西岸の堤防から1kmほど、真備からは10kmほど離れた高台にある。すぐに母に電話をかけたが、いたって呑気だった。「雨はすごかったけど、うちの周りは何ともない」という。

ひとしきり話し、電話を切ってテレビをつけると、目を疑うような光景が映し出されていた。私のよく知る町から、山をたったひとつ隔てただけの真備町は、まるで湖のように変わっていた。

その瞬間から、自分にできることはあるのだろうか、と考え始めていた。現地に行ったからといって役に立つわけでもない。そう分かっていても、どうしても自分の目で現場を見る責任があるような気がした。

7月15日・16日の2日間、私は真備町でのボランティア活動に参加した。倉敷市外からのボランティア受付は14日から始まっていたが、その日の受付が終わる午前10時30分までに東京から岡山へ移動することができなかったため、やむをえず翌日から参加することにした。

15日の朝7時半すぎ、ボランティア集合場所の一つである玉島ハーバーアイランドに到着すると、すでに駐車場には多くの車が停まっていた。福岡、鳥取、島根、神戸、和泉、奈良、三重、名古屋…三連休のおかげもあるのだろう、車のナンバーに書かれた地名は様々だ。私の場合、実家を拠点として使えるのはありがたかった。

集まったボランティアが長い列を作っている。服装はトレーニングウェアや登山用のウェアを流用している人が多かったが、普段の仕事で着ているであろう、作業服姿の男性も目立つ。

地元企業が提供するバスに40人ずつ分乗し、30分ほどかけて真備町へ向かう。私が乗ったのは9号車だった。この時点ですでに300人以上が現地に入っていたことになる。ボランティア保険に加入していない人については市が一括で手続きをするとのことで(私も事前に加入できておらず、反省している)、車内でペーパーを回して各自の氏名などを書き込んだ。

周りの話に耳をそばだてると、私と同様に実家が倉敷にある、という県外の参加者が多いようだった。東日本大震災の恩返しと思って来た、という東北からの参加者もいた。

真備町へ向かう道は渋滞していると報じられていたが、思っていたよりスムーズにバスは走った。山を越え、谷あいの集落を抜け、小田川支流の真谷川に沿って進んでゆく。真備町に近づくにつれて、めいめいが持ち物の整理や注意事項の確認をしていた車内は、だんだんと静かになっていった。

数十メートルにわたって堤防がえぐれて消え、川沿いの草むらは下流に向かってなぎ倒されている。水没した家々では家財道具を庭先に出して積み上げ、窓を全て開け放っている。平屋の建物が上から押しつぶされたみたいにひしゃげている。破れたビニールハウスの中に、茶色く枯れてしまった作物の苗が並んでいるのが見える。

町の中心部に入ると、道路の両側に、被災した家から運び出された家財道具が延々と積みあげられている。道路、電柱、民家、街路樹…およそ人の手の届く範囲のものすべてに、泥がびっしりと付着している。荷台に土嚢を積んだ軽トラックが走り抜ける。砂埃がもうもうと舞い上がる。

テレビのニュース映像では、「水浸し」の町の光景が頻繁に流されている。しかし、最高気温35度を連日超える猛暑で、すでに水はほとんどなくなっていた。私たちの目の前に現れたのは、乾ききった町の姿だった。