なぜかハラスメント加害者を擁護してしまう人の「精神構造」

私たちは、過去の感情を否定できない
千野 帽子 プロフィール

「感情のサンクコスト問題」

なぜか代わりに謝ってくれる弟子がいるなんて凄い。彼らも教授を〈愛すべきおっちゃん〉として愛していたのだろう。彼らにとって、教授と過ごした時間がよい思い出であることは、僕はもちろん否定しない。

まして、倉数さんも書評家さんも批評家さんも(たぶん文月さんを叱咤した編集者さんたちも)、「過去に受けた価値否定を受けて立ち(あるいはうまくいなして)それを乗り越えたからこそ、いま活躍している自分がある」というライフストーリーを持っているのだろう。

 

こういうふうに考えてしまう人間の「考えかたのクセ」については、拙著『人はなぜ物語を求めるのか』(ちくまプリマー新書)をお読みいただけると幸甚だが、その時間がない人は「生存者バイアス」で検索してみてもいい。

一般化すると、暴力の主体を擁護する人の動機は、たんに組織優先の保身だけではなく、その人と共有した自分の思い出の価値・意味づけを守りたいという感情にもある、というのが、本稿の結論。

これを僕は「感情のサンクコスト問題」ととらえている。

サンクコストとは、もうすでに使ってしまい戻ってこない費用のことだ。本当なら、そんなコストは無視したほうが合理的。だけど、人は往々にして「せっかくコストをかけたんだし…」と過去の決断に執着して不合理な選択をしてしまいがちだ。

では、「感情のサンクコスト」とは何か。

人はみな、過去の体験を自分なりに意味づけしながら生きている。その意味づけが変わって、長らく信じていたその体験の価値を否定すると、現在にいたる自分の人生までまとめて否定してしまうような気持ちになる。それを避けるために、体験の意味づけを変えないことに感情的にこだわってしまう、ということだ。

この現象は、体育会系部活の特訓や会社の新人研修や劇団の稽古(の名を借りたシゴキや洗脳やいじめ)を耐え抜いた部員・社員・団員に、よく見られる。日本社会にいい目を見せてもらってなさそうな人なのに「愛国」を標榜することがある、のにも似ている。

前回書いたように僕は「かつての加害者である可能性が高い人間の反省文」として一連の記事を書いている。子ども・学生が自分を虐待した親・指導者を庇うのは「自分も被害に遭ったこと」を否認することで平衡を保っている段階に思えてしまうのだ。