なぜかハラスメント加害者を擁護してしまう人の「精神構造」

私たちは、過去の感情を否定できない
千野 帽子 プロフィール

倉数さんもこの編集者たちも、マウンティング的な価値否定を受けて立ち乗り越えてこそ(弁証法的に!)クリエイターである証左、と体育会系っぽく遡行解釈してしまっているのではないだろうか?

きっと彼らは、「あのときのマッチョ流シゴキがあったからこそ、いまの自分が能力を活かして仕事をしていられるのだ」と思っているのだろう。

ほんとうにそうだろうか? あのときのマッチョ流シゴキがあったにもかかわらず、いまの自分が能力を活かして仕事をしていられる、あれがなかったらもっと自由に活躍していたかもしれない、と解釈できる可能性だってあるのではないか?

過去の経験をひとたび「よし」とした自分の感情を、「いや、〈よし〉じゃねえよな」と考え直す視点の転回には、かなりの思い切りを要する。だから僕たち人間はともすればこのように、いったん「よし」とした自分の判断を検討し直さぬまま齢を取りがちだ。

 

師匠のうっかりを弟子が謝る

前回の記事で、僕自身食事中に渡部教授に価値否定をカマされたことがある、と書いた。

某作品受賞の吉報で、僕と隣席の書評家(教授の弟子筋)が「乾杯だ」などと盛り上がっていたら、

「その作品がどうダメかを今度文芸誌に書いた、編集長大喜びだったぞ」

と教授が僕らの乾杯を止め、お隣の若手女性作家に教示しはじめて、卓上がなんかしんとした。

僕は自分の好きな作品が教授の個人的指標でダメの烙印を押されて鼻白んだのではない。ある小説がイイかダメかとかいう文学的「真実」とやらを、目の前にある飯と酒の旨さに優先して開陳する「文学青年」的な行為をする人がいまも現実にいるという事実に面くらって、その場で黙ってしまったのだった。

(photo by iStock)

かつての弟子や後輩の前なのでつい、そうじゃない他人にもご教示をしたがる先生というのは、俳句をやっている人にときどき見るが、批評家にもそういう人がいるということを知った。

個々の小説の評価なんて好みが食い違って当たり前なのだし、自分の評価しない小説を人が持ち上げてもべつに当たり前のことで(だって「他者」なんだもの!)、相手から見れば僕だって蓼食う虫なのだ。個々の小説が「いい」とか「ダメ」とか自体は、目の前の飯や酒の旨さに比べればまったく無価値な話題だと思ってる。すみません。

しかし教授は弟子に愛されている。僕はその会食を体調不良で中座したのだが(翌日、胃腸炎と判明)、気を悪くして中座したと思ったのか、同席で巻き添えを食った書評家がなぜか、後日僕に謝ってきた。この話を聞いた批評家(こちらも教授の弟子筋)まで、べつの日に僕に謝ってきたのだった。