なぜかハラスメント加害者を擁護してしまう人の「精神構造」

私たちは、過去の感情を否定できない
千野 帽子 プロフィール

指導を「受けて立つ」のが優秀な証なのか

倉数さんの文は渡部教授の〈愛すべきおっちゃん〉としての面を強調している。そのため、教授を擁護しているという誤読を誘った。僕も一度はそう誤読した。けれど、倉数さんの文は旧師を擁護する文ではない。最後の一文を読めば、文の意図は明白だ。

〈渡部直己のもとで学んだ日々を誇らしい記憶として持っていたかった〉

つまりこれは、学生として学んだ自分の過去・若い日々の美しい記憶を傷つけられた倉数さんが、それを自らケアするために書いた文章なのだ。僕はTwitterでそう指摘した。

「主任じゃないほうの早大男性教員」も、〈距離が近い〉教授への愛着を否定したくなくて、教授の〈魅力〉などという場違いな話題を出してしまったのだろう。

前回、渡部教授の〈自分と異なる学生の価値観を一旦叩き壊すというスタイル〉の授業について、倉数さんの文章から引用した。

〈村上春樹が好きな人いる? と尋ねる。〔…〕手をあげた学生を指差して、渡部は「ふうん、あんな田舎っぺの読み物読んで、何がおもしろいの」(大意)と言ってのける〉

〈まず学生の価値観を崩壊させ、そこに自分の考え(春樹はダメ!)を叩き込む〔…〕。あまりにマッチョで、高飛車で、上から目線だ。〔…〕ただ一部の優秀な学生は、新しい価値観も渡部直己の受け売りに過ぎないと気づき、あらためて自分の文学観を確立しようと努力していく〉

(photo by iStock)

果たして、〈優秀な学生〉だからマッチョ流にめげずに研鑽を積んだ、と考えていいものだろうか? 僕がこの箇所に疑問をを持つには理由がある。

ここで前回に引き続き、詩人・文月悠光さんの経験をご紹介することをお許しいただきたい。

 

〈見返す〉というストーリーに縛られる

文月さんは大卒後の進路をどうしようかと思っていた時期、アート系の大学院を訪問した。〈そこでは、芸術系の研究活動として小説や戯曲、批評の執筆が認められていた〉が、そこの男性教授は

〈詩はアートではない。この学校では誰も〔…〕詩に関心はないよ〉〈あなたのやっていることは〔…〕この学校に要らないよ〉

と頭ごなしに否定し、学生の作品の写真を見せて、

〈島に自分で穴を掘って、土壁を作ったんだ。こんなの、彼のほかに誰も作れない。新しいでしょう?〉

と言った。文月さんは〈その場でボロボロ泣いた。同時に、ここは私の居るべき場所ではない、とはっきりと悟った〉(「セックスすれば詩が書けるのか問題」)。

後年、〈文化系で、普段は至って大人しい〉〈三〇代のアート系の編集者たち〉にこのことを話すと、つぎのように返された。

〈「そんなことで心折れてるんですか? 文月さん、弱いですね!」
「その人を見返すくらいのものを作ったらいいじゃない。作品で見返してやりなよ」
 矢継ぎ早にそう言われて、とても驚いた。彼らの台詞は、まるで熱血スポ根漫画の一場面から引っ張ってきたようだ〉

この編集者たちは、渡部教授のマッチョ流シゴキにめげずに研鑽をつんだ学生を〈一部の優秀な学生〉と呼んだ倉数さんとよく似ている。