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なぜかハラスメント加害者を擁護してしまう人の「精神構造」

私たちは、過去の感情を否定できない
前回の記事では、ハラスメント加害者の心の奥底に、「恐れ」の感情があることを指摘した。今回は、ハラスメント加害者の周囲の人々が、加害者を擁護してしまう心の在り方を分析する。背景にあるのは、「感情のサンクコスト」という人間の考え方のクセだった。

早稲田大学文学学術院の大学院生が、指導教授である批評家・渡部直己氏に性的なハラスメントを受けたという苦情申立書を大学に提出していたという報道を読んで、気になった点がある。

院生が現代文芸コース主任だったべつの男性教授に相談すると、口止めされた。続報によれば、教授の別件のハラスメントの噂を以前から憂慮していた女性教員が周囲に注意を呼びかけていたが、〈主任だった男性教授とは別の男性教員〉は彼女にたいして、

〈渡部教授の魅力は学生とよくつるむこと。彼から何もかも奪ったら、彼の魅力がなくなってしまうのではないか〉

と言ったというのだ。

 

問題は「保身」だけではない

最初に書いた〈主任〉の口止めは「組織保護優先の態度」という印象があり、アメフト不正タックルの日本大学を思わせて冷たい。

いっぽうこちらの、主任じゃない男性教員は、〈渡部教授との距離が近い〉という紹介にふさわしく、教授の〈魅力〉という明らかに場違いな話題を語っている。被害者が出ている可能性があるときに、加害の疑いのある人物の〈魅力〉について語ってしまうのは、不思議な現象だ。

なぜこの文脈で、教授への個人的な愛着を感じさせる情緒的な発言が出てしまうのだろうか。

かつて渡部教授の授業を受けたこともある小説家・批評家の倉数茂さん(東海大学文化社会学部文芸創作学科准教授)は、この報道を受けてネットに「渡部直己教授について」という文章を投稿した。前回の記事に引いたのもこの文章からだ。

倉数さんは、〈記事を読んで愕然とした〉と書いたが、そう書きながらもそのすぐあとで、〈渡部直己がある種のスケベ親父であることは、周囲の人間は皆知っている事実だった〉とも書いている(僕はぜんぜん知らなかったので、倉数さんよりは驚いた自信がある)。

〈「渡部先生、やってしまったか」というのが偽らざる感想だった〉。つまり倉数さんは、「まさか彼が」ではなく「とうとう彼が」と思ったのだ。倉数さんは、教授がハラスメントをしたことに愕然としたのではない。文学者のハラスメントが容認されなくなり大っぴらな批判対象になったという世界の潮目の変化に恩師がまきこまれたことにこそ愕然としたのだ。

芸術家やエンターテイナーやプロスポーツ選手について、社会常識からはみ出したアウトロー的な像を描きがちな時代が、過去にはたしかにあった。そのあと、世の中の潮目は確実に変わった。