ハラスメント加害者の心の奥底に潜む「恐れ」の感情を解剖する

早大セクハラ問題に寄せて
千野 帽子 プロフィール

価値観に自信がないから、「折伏」しようとする

人は、意識して毒舌を吐いているかぎり、他人が自分を認めて親しんでくれない理由を自分の毒舌のせいにすることができる。「私がほんとうのことをズバリ言うものだから人に煙たがられるのだ」と考えることができる。「私は人間関係にまだ本気出してないだけ」とどこかで自分を慰めることができる。

見かたを変えればこれは、他人に承認されることを過度に重視した結果の裏返しでもある。「怖がっていない」「承認(愛)など要らない」という明言こそ、もっとも怖がっていて、もっとも承認(愛)を欲している(そしてその自覚がない)人の言葉だ。

倉数茂さんによると、渡部教授は〈アクの強い、周囲に好悪の反応を引き起こす人間〉で〈嫌悪感や反発を抱いているものも多いだろうが、一度波長さえ合えば、とてもいい教師だった〉という。〈親しい学生のあいだでは、「俺様」として振舞っても許されると思っていたのかもしれない〉。

特定の〈親しい学生〉の前で「俺様」として振舞うのは、ある種の甘えだ。その甘えは、〈親しい学生〉でない「学生一般」への恐れと表裏一体だったのだろう。初対面で相手の価値を否定するのは、それを乗り越えて自分を承認してくれる人を見出すための篩(ふるい)にすぎない。

そして一般的に、自分の価値観に自信がない人ほど、他人を折伏しようとするものだ。だからこれは完全に想像だが、渡部教授は、村上春樹の名前は知っていても渡部教授の名前は知らない高校出たての若者に、

「ダサくてすみません、それでも村上春樹が好きなんです〜」

とへらへら笑われることが、じつはひどく怖かったのではないだろうか。

学生や部下の一部から避けられ、一部からは熱愛される、アクの強い教師や上司が生まれる機構には、教師・上司当人の学生・部下への自覚されざる恐れが一枚噛んでいる、というのが本稿の結論だ。

 

教師や上司は、承認も尊敬もされる必要ない

教師・上司に弟子や部下が敬意を持てれば、伸びるモチベーションにはなるかもしれないけれど、そういう要因はいつも働くとはかぎらない。

ほんとうは教師も上司も尊敬なんかされる必要、ないのである。はっきり言うと、学生や部下が伸びるなら、教師や上司なんて空気みたいな薄い存在感でいてなんら問題ない。

教師・上司が学生・部下に承認されたいと思うほどに、学生・部下への強圧的対応は生じるのだ。

ハラスメント被害者は加害者を恐れて生きることになってしまいがちで、それはほんとうに悲しいことだ。

しかし向後善之『人間関係のレッスン』(講談社現代新書)によれば、ハラスメント加害者には〈他者の自分に対する評価を気にして、自分の持っている優越感が損なわれることを恐れる「超過敏」と呼ばれる感覚〉があり、〈自分の有能さや重要さ(自分が思っているだけかもしれませんが……)が損なわれることを非常に恐れている〉という。

加害者の側に、そもそも謂れのない恐れがあった、という視角は、いま被害に会っている、あるいはかつての被害の傷がまだ痛み続けているみなさんには、なにかの足しになるのではないか、と思う。

パワハラ、モラハラの被害を受けている人は、相手が自分を恐れているのだということを意識すると、事態改善のヒントに繋がるかもしれない。また教師・上司・親・多数派といった加害しうる立場にある人は、自分のなかに相手への恐れがあるかもしれないと意識することで、事前に加害を防ぐことができるはずだ。

これがかつて「加害者」であったことを悔い、そして自分がいつまた加害してしまうかもしれないという自覚を持つ弱い人間が、今回の事案を受けて、加害・被害双方でハラスメントの現場にいる人に伝えたいことだ。