10代後半や20代前半による悲しい犯罪が後を絶たない。19歳の同僚警察官射殺事件、新幹線殺傷事件、富山の拳銃強奪事件、ネットカフェ殺傷事件……。原因について多く論じられているが、すぐ近くの大人ができることも必ずあるはずだ。
1991年長野で生まれ、2014年に『気障でけっこうです』で小説家デビューした小嶋陽太郎さんの最新刊『放課後ひとり同盟』は、「ほんの少しのことで、罪を犯しうる10代や自分たちが救われるかもしれない」と思わせてくれる一冊だ。
その小嶋さんに「10代にとって必要な大人ってどんな人だと思うか」を率直に綴ってもらった。
寝てばかりの中学生だった僕
中学生のとき、授業中、眠くて眠くてしかたがなく、実際に寝てばかりいた。ひどいときは一限から六限まで全部寝ていた。体のどこかがぶっ壊れてるんじゃないかと自分で不安になるくらいの眠さだった。
三年になったある日、昼休みに担任に呼び出された。
担任は尊大な目(だと僕は思った)で僕をにらみながら、どういうつもりか、と言った。それは疑問形ではあったが、「なぜそんなに居眠りばかりするのか」という質問ではなく、「あなたが居眠りばかりすることに私は腹を立てている、寝るな」という主張だった。表情や声色から僕はそう受け取った。
すみませんと僕は謝った。これでまだ寝るようだったら云々と担任は言った。気をつけます。謝って僕は教室へ戻った。そしてその日の六限の担任の授業でやはり寝た。
信じてもらえないかもしれないが当てつけにわざと寝たのではなかった。授業が始まるや否や待ち構えていたかのように睡魔がやってきて、あらがってはみたが、あっさりと負けたのだった。
放課後、再度担任に呼び出され、また何か言われた。何を言われたかもなんと答えたかも覚えていないが、そのときの担任の目つきだけは覚えている。
高校生になってからも授業中の睡魔は続いた。
どうして眠くなるのか
十代も後半に差しかかると多少の自己分析ができるようになる。
あるとき僕は二つのことに気がついた。
一つは、自分は学校で授業を受ける時間をたまらなく苦痛に思っているということ。
もう一つは、苦痛だから眠くなるのだ、ということだった。
教室で椅子に座って教師が何かしゃべるのをぼんやり聞いていると、誰もが十代のときに感じたことのあるあの純粋な疑問――なぜ俺はいまこんなところでこんなわけのわからん話を聞いているのか――が頭蓋骨と脳味噌の隙間のあたりから顔を出して徐々に脳味噌全体が支配され、やがてその場にいることが不快でたまらなくなり、ほとんど混乱と言ってもいいくらいの状態に陥ることがあった。その混乱があるポイントに達すると自己防衛本能が働いて意識が途切れる。あの抗い難い睡魔はきっとそういうことだろうと僕は思っていた。
そのうちに僕は学校をさぼるという有効な技術を身に着けて、気分が乗らないときには遅刻したり早退したり欠席したりするようになった。午前中は学校に行くけれど昼休みくらいにイヤになって勝手に帰るというパターンが多かった。
そんな調子なので成績も地面すれすれの低空飛行で、学年320人中300位周辺を常に漂っていた。数学のテストなどは白紙で出して0点だった。数学は妙な記号や数字が出てくるだけで、数ある退屈な教科の中でも群を抜いて興味を持つことが難しく、積極的に欠席していた。たとえ出席しても例の防衛本能のせいで何一つ学ぶことができなかったから白紙になるのも当然だった。
補習を受けながら、なぜこんなにイライラするのだろうと思っていた。人並みに授業を受けるという簡単なことをこんなにも耐え難く思う自分にはどこか致命的な欠陥があるのではないか。「一問もわかんなくて白紙で出しちった~」と楽天家を装いつつも本当は不安だった。装っているのか本当に楽天家なのか、わからなくなることがあってそれもまた不安だった。