千葉:それに関してちょっとコメントすると、メイヤスー自身もある種キリスト教的な、人間の進化というか、「神に向かっていく」というビジョンを持っているんですよ。ご存知かもしれませんが、実はメイヤスーって、ものすごく神学的な議論もしているんですね。
メイヤスーにはまだ完成していない「神の不在」というプロジェクトがあって、その中では最終的に、「すべてが偶然から発生するということは、今は神様はいないけれど、いつか完全な偶然で神様が突然誕生して、過去に不幸な死に方をした人を全員復活させる」という話をしてるんです。ヤバいですよね(笑)。これも完全にキリスト教的なストーリーです。
「すべての死者が復活した世界」って、完全に天国だし、神の恩寵ですよね。そういうふうに、「神」というものを、現代的な存在論によってもう一度保証し直すという試みが向こうにはあります。テイヤール・ド・シャルダン2という思想家がいますけど、彼も人間が神的なものに向かって進化していく、みたいなビジョンを唱えている人で、そういうものを想起させる部分があるんですよね。
つまり、西垣先生は今回、AIにおけるそうしたユダヤ・キリスト教的なニュアンスを帯びたシンギュラリティ論をメイヤスーの唯物論思考と結びつけているわけですが、宗教的なニュアンスという点でもAIとメイヤスーは結びつくところがあると思うんです。
『有限性の後で』には、メイヤスーの神学的な部分は出ていません。単に「この世界は偶然でできていて、全く別のものに突然変わっちゃうかもしれない」と言っているだけで、「だから神が突然登場する」とまでは言っていない。そこで寸止めにするんですよ。僕はそのメイヤスーを評価しているんですね。
彼は人間が絶対的なものへ近づいていく、人間がディヴァイン(神聖)なものになっていくというビジョンを持っているんです。しかしその部分に対しては、やっぱり僕は違和感を持つわけです。シンギュラリティ論に先生が持たれている違和感も似たようなものかな、と思います。
ただ、これを単純に一神教批判にしてしまうと、それはそれでポリティカル・コレクトネス的にも問題があると思うのですが、我々が感じる違和感の根源は一体何なんだろう、と思うんですよ。
西垣:おっしゃる通りです。私自身、荒っぽい一神教批判をするつもりはありません。この問題はたいへん複雑微妙なので簡単には扱えませんね。ただ、それは措いても私はまず、AIをとりまくいまの日本の風潮があまりにも軽薄ではないか、と思う。
シンギュラリティの思想が持つそうした「根っこ」を全く探求せずに、「よくわからないけど、AIっていろんな分野でどうやらすごく役に立つみたいだし、日本もやっておかないと乗り遅れますよ」という卑屈さがイヤだ。