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AIが「人間より正しい判断ができる」という思想、やめませんか?

機械は責任をとれるのか?

日本では、一般に「AI」という言葉は「人間の暮らしを便利にし、ビジネスを効率化する人工知能技術」という程度の意味で使われている。だが欧米の最先端の技術者、思想家には、「AIが神にも等しい存在になる」と考える向きも決して少なくない。

「AIの可能性と不可能性」を哲学の視点から語る、西垣通氏(東京経済大学教授、情報学)と千葉雅也氏(立命館大学准教授、哲学)の対談。最終回は、「AIは、人間を本当に幸せにするのか?」という問題を考える。

テクノロジーと宗教の深い関係

西垣:形而上学というのは、「物自体」というものを人間は扱える、認識できる、さらに推論によってその本性を把握できるというような、古い考え方ーー今でもそういうことを考えている人はいっぱいいるんだけどーーなんですね。カーツワイルのようなAI学者も同じで、世界というものは必ず論理的秩序をもって構成されているんだ、という信仰が非常に強くある。

それは、「ロゴス」という言葉にはっきり集約されていると思うんですよ。ロゴスというのは、三段論法みたいな、いわゆる「論理」という意味がある一方で、「真理」という意味も持っているんですね。『ヨハネの福音書』なんかに使われているんですが、「神の言葉」であり、すなわち真理なんですね。

神様と、その神様が発するロゴスというものがあり、世界はそれに全て従って動いている、という考え方がある。しかしそうなると、人間も機械も結局は同じ被造物になってしまうわけです。

形而上学的な議論では、コンピュータも人間の体も全部、神の秩序に基づいて分子からできている。両者のどこが違うんですか、ということになるわけです。ここは私が非常に面白いと思うと同時に、批判したいところですね。

 

ちょっと端折った話をすると、もともとこういう考え方はユダヤ=キリスト教のような一神教に見られるものですが、大昔、だいたい西暦元年あたりまでは「神様の言葉(ロゴス)というものはあるけれど、それはとても普通の人間がうかがい知れるようなものじゃないんだ」ということになっていたんです。神様の本質は、我々人間のちっぽけな有限の脳みそには、高遠すぎてわからないんだと。

しかし、そこから人間が神に近づこうとした第一段階が、325年のニケーア公会議1だと思うんです。つまりイエスというのは、私から見るとーーキリスト教信者の方には申し訳ないんですけどーー非常に立派ではあるけれど、あくまで「人間」なんですよね。彼はユダヤ教の偉大な改革者だったわけで、別に自分が神様である、なんて言っていません。

しかし、彼が十字架にかけられて300年も経ってから、「あれは神様だった」と位置付けてしまった。それは、ローマ帝国のひとつの統治戦略だったんですね。

ローマは当初キリスト教徒を弾圧しましたが、でもその後、キリスト教の信仰が燎原の火のように広まって、帝国の民はもうみんな信じている。じゃあ、それを統治に使えばいいじゃないか、ということで、その時に「神様とイエスは同じだ」という、普通に考えれば不思議な言説が正統になったわけです。

千葉:それがやはり、キリスト教の大きな発明ですよね。つまり、「有限なもの(人)と無限なもの(神)の重ね合わせ」というある種の矛盾を可能にすることによって、そこで初めて普遍宗教としての独特のロジックが発動した。

西垣:さらにもう一つ、16世紀の宗教改革がありましたよね。中世には普通の庶民は聖書なんて持っていませんし、みんな文字も読めませんから、教会で説教を聞くことによってコントロールできていた。

ところが活版印刷ができたこともあって、みんなが聖書を持つようになり、勝手に読んでいるうちに、「偉いお坊さんが言ってることって本当なの?」とみんなが思い始め、自分で聖書を解釈していくプロテスタンティズムが出てきたわけです。

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そのプロテスタンティズムがひろまる中で、だんだん宗教が「道徳的な生活を送るための道標」みたいなものになっていき、それがふくらんでアメリカという国の宗教風土になった。ついにアメリカでは、「世の中で金銭的に成功する」こと自体が「神に愛された証」だ、というような話になっていった。まあ、非常に荒っぽく整理すれば、ですけれど。

千葉:頑張れば神の愛を受けられる。

西垣:「予定説」では、もともと天国にいける人間は決まっているので、地上で成功しているということはちゃんと神様の救済の予定に入っている証拠だ、と都合よく考えたりしたようです。他にもいろんな説があるんですが、ともかく進歩主義で、「テクノロジーの進歩が世界をよくするんだ」という考え方が宗教的使命感とどんどん重なっていく。

AIを研究している人からも、どこかそういうことを感じますよ。彼らは単に自分が儲けたいとか、そんな小さな目標でやっているわけではないんですね。欧米の一流の学者は、何か大きなものに巻き込まれてゆく、それは使命、ミッションなんだと思っている。

彼らはとくに信心深いわけじゃなくて、普通の学者なんですよ。でも、考え方のベースにはおそらくそういうものがある。

1)ニケーア公会議(第1回):ローマ帝国皇帝で初めてキリスト教徒となったコンスタンティヌス1世が、325年に小アジアのニケーア(現トルコ・イズニク)で実施した公会議(全ての教会から代表者が集まる会議)。アリウス派を異端とし、神とキリストを同質とする「ニケーア信条」の採択が行われた。