講談社創業者が師範学校で実践した「超・省エネ勉強法」

大衆は神である⑩

上州の貧しい家から、東京帝大書記を経て、戦前日本を席巻するメディア・コングロマリット「大日本雄弁会講談社」を生み出した男——野間清治。

その豪快なビジネスセンスと、鮮やかな立身出世を賞賛する文献は少なくない。しかし彼の生い立ちやほんとうの人柄は、これまであまり詳らかにされてこなかった。

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、日本の出版業界と近代社会の黎明の光と陰を追う、大河連載「大衆は神である」。

 

師範学校入学

日清戦争が終わった翌年の明治29年(1896)春、野間清治は前橋の群馬県立尋常師範学校に入学した。

師範学校には、修業年限2年4ヵ月の簡易科(卒業すれば尋常小学校の正教員になれる)と、修業年限4年の本科(尋常小学校と高等小学校の正教員になれる)があったが、清治は山田郡長の推薦を受けて本科に入った。

師範学校には、成績優秀だが中学に行けない、貧しい家の子弟が多かった。というのは、学費がタダだったからだ。全寮制で、制服やシャツ、靴、帽子のほか学用品代まで支給される。その代わり、卒業後に一定年数、県内の教師として勤務することを義務づけられる。

寄宿舎では、午前6時ごろ起床ラッパが鳴る。すると寝台から飛び降り、制服に着替え、廊下に整列する。やがて、当番の最上級生(副官と呼ばれた)を従えて舎監が点呼にやってくる。

副官は名簿を見ながら「番号!」と声をかける。「一、二、三、四……」。直立不動の姿勢で生徒たちが答える。軍隊式の厳しさである。

点呼が終わると、朝食、授業、自習時間と一日のタイムテーブルは細かく決められている。自由に行動できるのは放課後の2、3時間ぐらいだ。それでも清治にとって当初は新鮮で充足した日々だった。そのころの心境を清治はこう振り返っている。

〈(学校から)洋服などをもらったり、シャツをもらったり、靴をもらったり、筆紙いろいろもらったというようなことは、貧乏の子である自分には非常にありがたく感じました。

なおまた師範の生活が軍隊式で、これは森(有礼)文部大臣のときにこうなったというようなことでありますが、寝台、毛布、敷布、そうして藁布団のうえに寝るのです。それから棚の上にシャツなどをたたんで置く。

(略)その生活なども例の(新宿村の実家の)臭い蚊帳のなかで、薄い冷たいせんべい布団に寝るという境遇から行ったのでありますから、なんだかあいすまぬような気がいたしました。その時の一種の快感は、これはまたその後に得られないほどの快感であります〉

入学から3ヵ月間は仮入学期間である。その間に人物、健康状態、学習意欲などをチェックされ、師範学校生にふさわしくないと判断されると退学させられる。清治は無事、この関門をパスして本入学を許された。のちに、群馬県立尋常師範学校の語り草となる清治の野放図な行動がはじまるのは、それからである。