圧倒的な体験が始まる——『大江健三郎全小説』刊行記念

文学とは、つまりこういう小説を指す

現代作家への影響力

7月10日に『大江健三郎全小説』の刊行が始まった。

全15巻の解説を配本順に書いていくという役割に就き、深海の底にいるような重圧を感じているが、それが帳消しになるほど無上の読書の喜びにも充たされている。

この全集が実現して本当によかった。そうでなければ、私たちは大江健三郎という作家の面白さに感知不全のまま、あるいは半可に誤解したまま終わっていたかもしれない。

長編28作、中・短編66作をテーマ別に集めた上で年代順に並べた本全集の編集は新鮮で、どの作品を再読しても発見と感嘆の連続。これまで積み上げてきたはずの作家のイメージが音を立てて崩れていく。

約60年前、1957年のデビュー時にさかのぼって読み進めると、過去ではなく、未来へ向かっていると感じるほど作品には永遠の若さが息づいていて、まるで去年か今年になって書かれたように真新しい。後続作家への影響力がこれほど絶大だったかということにも驚くばかりだ。

〈わたしはKとその情人の親切な配慮にまんまとのって性的な禁圧状態からの奇妙な解放をえることになったのであるがこの体験にはわたしの内部のマゾイスティクな傾向のわたし自身による生れてはじめての発見という余興までついて24歳にもなれば自分の内部に新しい発見をしたりすることは決してないと信じていたわたしに神の摂理の不可解な奥のかすかな明るみをかいま見させてくれたわけだ〉

これは気まぐれな女優に振り回される若い物書きのひと夏の悲喜劇を描いたほぼ改行、読点なしの短編「上機嫌」(59年発表、本全集の第二巻に収録)中の一節。90年代の阿部和重ではない。

 

次の文章は、初の大長編「遅れてきた青年」(62年刊、同巻収録)から。代議士の娘とつきあう地方出身のエリート学生は、左翼組織による屈辱的な拷問に遭い、ホテルの上階にある代議士事務所から学生らを見下ろしながら復讐を誓う。

〈政治的人間とは、他人どもとちがう人間だと自己宣伝した人間のことをいうんだろう。人間どもを満載した船のそばをひとりぽっちで泳ぎぬけてゆく人間を、政治的人間というのだろう、鱶(ふか)だらけの海で!(中略)こいつらは蟻の洪水のようにたちまちここへ押しあいへしあい昇ってきて、おれを嚙みしだいてマッチ箱のようにするだろう、大群集にたちむかうキング・コングおれ!

これも中村文則ではない。「孤独な青年の休暇」(60年発表、同巻収録)では、25歳の「私」が死んだことになったまま、海辺の地方都市でぼんやり音楽に浸っている。

〈コオフィ店に坐って時間のたつことにも無関心でジャズを聴いていると、自分が懐かしくなってくるのだ。/黒人のジャズ演奏家は卑小で馬鹿みたいで女子性器の俗称を自分の名前にしたりするやつもおり、鳥(バード)という通称の男が不世出のアルト・サックス奏者であったりする、無名者で透明人間で無意味で非重要だ〉

バード=チャーリー・パーカーを愛することにかけては、村上春樹より大江のほうが年季が入っているだろう。

圧倒的な文学

23歳で芥川賞を受賞したとはいえ、よくもこれだけ大量に、一作ごとにアイデアを凝らして書けた、書く場を与えられたものだが、江藤淳、石原慎太郎、谷川俊太郎……「戦後世代」と呼ばれた新人たちは1950年代から60年代に向かって、それぞれが無謀なジャンプをしながら全速力で、けっこう和気藹々と東京の曠野を走り抜けようとしていた。

10年ほど年長で「戦後派」と呼ばれた安部公房も三島由紀夫も、まだ特別扱いされることなく対談や座談に参加していた。時代も社会も、生き抜くことの力と智恵を文学から得ようと待ち構えていた。その時期の仕事が本全集の第1巻から第3巻に、これ以上ない密度で詰まっている。

しかし、この直後の1963年、知られてきたように脳に障害をもって長男・光が誕生したことにより、大江の青春は28歳で強制終了となる。