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『万引き家族』は「家族の映画」でも「貧困の映画」でもなかった

「絆」を描き続ける是枝監督の到達点

映画『万引き家族』がカンヌ国際映画祭で最高賞(パルムドール)を獲得し、興行的にも大ヒットを記録している。ただ、是枝裕和監督が文部科学大臣との面会を辞退し「公権力とは潔く距離を保つ」と述べたことなどに注目が集まり過ぎて、作品の本質的な価値については、意外にもそれほど語られていないように思われる。

公開開始から少し時間が経ってしまったが、本稿では、筆者が特に興味深く感じた3つのポイントについて言及してみたい。具体的には、下記のようなものだ。

【『万引き家族』は「家族の映画ではない」】

【『万引き家族』は「(経済的)貧困の映画ではない」】

【『万引き家族』はサバイバリズム(生存主義)の流行を汲む映画である】

※なお、本稿はネタバレを含むため、未鑑賞の方はご注意ください。

 

「非家族」が照らし出す「家族」

まず、劇中の「万引き家族」を構成している「柴田家」の人々を見てみよう。

「柴田家」の人々は、互いをなんとなく家族とみなし、周囲も彼らのことを家族とみなしている。しかし法的には家族ではないし、生物学的にも家族ではない。

つまり『万引き家族』は、「家族にあって家族に非(あら)ず」という「非家族」についての映画なのである。これがこの映画の中心テーマとなっている、重要な仕掛けだ。

観客は、父親として振る舞う治(リリー・フランキー)と、まるで息子のように治を慕う祥太(城桧史)の「雪だるま」作りをはじめとして、説得力たっぷりに描かれる「家族らしい家族」のエピソードを次々と〝体感〟させられる。それによって、次第に「家族らしさの源泉とは、一体なんなのか?』ということに関心を向けざるを得なくなる。

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社会学者のJ・F・グブリアムとJ・A・ホルスタインは、『家族とは何か その言説と現実』(新曜社)で、「家族」という言葉の使われ方を分析し、その定義そのものの核心に踏み込んでいる。

友だちを家族と呼ぶ者もいれば、ペットを家族と呼ぶ者もいる。さらには、多国籍企業をひとつの家族とみなす者もいる。逆に、妻や血のつながった子ども、両親を家族と呼ぶのを拒む者もいる。誰が正しいのだろうか…。そもそも、わたしたちが「家族」と呼んでいる集団は、法的なものや生物学的なものだけでは捉えきれない。

では逆に、「家族に不可欠なもの」とはなにか。

社会学者のタルコット・パーソンズは「家族固有の機能」を「子どもの基礎的な社会化」と「成人のパーソナリティの安定化」の2つに絞った。つまり、子どもを社会に適応させ、大人の精神を安定させるはたらきをもつ共同体こそ家族である、と考えたのだ。極論すれば、この2つの機能を満たす集団なら、血縁がなくとも家族として十分機能する。

この「家族の条件とはなにか」という問題について、是枝監督はすでに『そして父になる』(2013年)で答えを提示している。