同居していたガールフレンドのカワグチ・マリによると、エマーソンは心身の不調もあり鬱状態だったという。なかでも、右手の筋肉と神経に問題を抱えていたため、満足な演奏ができないことを悩んでいたそうだ。彼の演奏に対するネットでの否定的評価も目にして、気に病んでいた。
そして、目前に迫った(翌月の4月)日本公演の予定が彼を苦しめていた。「完璧な演奏ができない。観客をがっかりさせるかもしれない」という不安が彼の心をさいなんでいた、とカワグチは英メール・オン・サンデー紙に語っている。
つまり、エマーソンは「ロックスターである自分」に追いつめられた、と言えるだろう。「完璧」を求めて、世界のトップに立った者ですら「絶望の波」から無縁ではいられない。その凄惨な事実を、我々は厳粛に受け止めるしかない。
理想は、夢は、人を殺す。それが他殺としてあらわれる際たる例が、戦争だ。大日本帝国もナチス・ドイツも、身勝手な「理想」を掲げて戦争を始めた。理想から生じた「正しさ」は、こうして往々にして他者を破壊しようとする。
そして逆に「他者を攻撃しない」優しい人が理想を掲げた場合は――どうやらそれが「その人自身」を滅ぼしてしまう、ようだ。正しさは他者を殺し、優しさは自分を殺す、ようだ。
この後者の例が、ほぼ、ほとんどの「自殺したロッカー」にあてはまると僕は考えている。ボーデインにもこれは当てはまると思う。
そして「ロックを聴かない」人であったとしても、日本人には、律儀で我慢づよく、勤勉な「理想主義者」に近い部分が抜きがたくある、そんな人が多くいる。ここに、他者を糾弾するよりも「悪いのはどうせ自分ですよ」と思い込む(あるいは、思い込まされる)ような百姓根性がブレンドされて、人生における「二度の波」をもろに受けるような状態となっているのではないか、というのが僕の考えだ。
まるで潔癖性のロッカーのように、日本人は自殺しているのではないか。若者もそうだが、中年層は、とくに。
自分自身のことを書こう。
僕はこれまで一度も自殺を考えたことがない。幼少期にアクシデントであやうく死にかけたことがあるせいだ。それからずっと、死が怖くてしょうがない。同時に、それほどにも怖いものが、いつもいつも自分の目の前の、すぐに手が届くところにずっと居座り続けている、という認識がある。
毎朝、起きた瞬間に思うことは、今日一日は生きていたい、というのが最初だ。気を抜いているとすぐに死んでしまうと思っている。それを想像することがまた怖い。だから僕が自殺することがあるならば「死ぬのが怖いから」という理由かもしれない。死ねばもう怖くはないから、という倒錯した理由で、つい死んでしまうことはあるのかもしれない。
僕がこんな調子でいるあいだに、両手足の指では足りないほどの友人知人が、すでに世を去ってしまった。多くはないが、自殺もいた。27クラブ(前回参照)に自分は入らなかったが、そのことに無関心でいられなかったのは、こうした理由もある。
自殺を勧める、とんでもない歌がある。「Suicide Is Painless」、日本語にすると「自殺は痛くない」といった意味のタイトルを持つこの曲は、70年公開のアメリカ映画『M★A★S★H マッシュ』でフィーチャーされて、一躍大人気曲となった。
もちろん、ブラック・ジョークだ。ヴェトナム戦争たけなわの時代に制作されたこの映画は、朝鮮戦争の戦場にある米陸軍移動外科病院を舞台に、セックスや悪ふざけを繰り広げる「反戦」コメディで、TVドラマにもなった。TV版は72年から83年まで放送される長寿作となった。
こちらでもテーマ・ソングとして「Suicide Is Painless」が使用された。耳に残る甘くメランコリックなメロディで、究極の「逃避の勧め」としての自殺を賛美するインパクトの強さから、幾度も幾度も、この曲はカヴァーされている。
なぜこの曲を思い出したのか、というと、じつはかねてから僕は、アンソニー・ボーデインは俳優のエリオット・グールドが好きなのではないか、とにらんでいたからだ。とくに70年代のグールドの立ち居振る舞い、話しかた、声の感じと、ボーデインのそれはとてもよく似ている。ボーデインはグールドが好きだったから、影響を受けて、真似してるんじゃないか、と僕は思っていたのだ。
映画版の『M★A★S★H マッシュ』はグールドの代表作のひとつだ。彼は日本では『カプリコン1』(77年)の助演などでも人気がある。だがしかし、グールドの決定版となると、『M★A★S★H マッシュ』同様、ロバート・アルトマンが監督した『ロング・グッドバイ』(73年)だろう。
レイモンド・チャンドラー作の探偵小説の幾度目かの映画化だった同作で、グールドは主人公のフィリップ・マーロウをかなり「俺流」に演じた。おそらくボーデインはこのキャラクターも好きだったはずだ。グールド版のマーロウは「時代おくれの負け犬」だと規定されていた。くわえ煙草で飼い猫に話しかける(しかし冷淡にあしらわれる)、ひとり身の中年男だ。
しかし彼は原作どおり(決着のつけかたは違うが)、最後まで生き残る。彼は「長いお別れ」を告げる者であって、告げられる者ではないからだ。だからマーロウの物語は、形而上的には「終わることはない」。
理想に、いや「文化に」よって死に追いつめられるのならば、それを逆手にとって、どうにかして生ある場所へと回帰できる手段を、それこそ必死になって模索してみたい。僕は毎日そう考えている。お前はにぶいから危険水域に行かないだけだ、と批判されれば、まさにそれだけでしかない、のかもしれないけれども。
川崎氏は現在、「究極の洋楽名盤ROCK100」(光文社ウェブサイト〈本がすき。〉)を連載中