「ロックなおやじ」を自殺に導く、理想主義と百姓根性について

50代の日本人が死に至る「病」とは
川崎 大助 プロフィール

死に隣接した芸術形態だから

前回の稿で書いたとおり、ロック音楽家やファンの死因には、突然死(事故死)がまず多い。ドラックやアルコールに淫した結果、中毒や過剰摂取になって死ぬか、それがもとになった事故で死ぬ。風呂場で溺れ死んだり、寝ているあいだに自らの吐瀉物で窒息したりもする。

あるいは、薬物の影響下にある「かのような」精神状態のせいで、交通事故そのほか、あらゆるトラブルを引き起こしては、その果てに自滅するかのようにして死んでいく者が、「かつては」多かった。

これはつまり「身持ちが悪い」というものだ。まともな社会人とは、あまり関係がないどころか、「変な奴」として忌み嫌われるようなライフスタイルを指す。ところが、ロックを愛するロッカーは、往々にして「この部分にこそ」惹かれ、そして自分でも実践していくようなところがある。

言うなれば、そもそもロック音楽とは、死に隣接した芸術形態だからだ。かつての文学が、ジャズがそうであったように、ロックもまた、この世のあらゆる常識の埒外へと踏み込んでいくことを称揚する精神性がある――いや「あった」からだ。

 

この精神性から生まれた肯定的な現象のひとつが、60年代のカウンターカルチャー大爆発だ。反戦と平和、アメリカでは公民権運動、そして女性解放……歴史に残るこの文化的大変動期に、ロック音楽が果たした役割は大きい。ボブ・ディランひとりがいなかっただけで、これらの「闘争」の様相や帰結は、ずいぶんと違うものになっただろう。

だが、こうした「理想主義的なところ」が、人の身をさいなむのではないか、と最近僕は思う。たとえば、日々の生活が、職場の環境が、学校が「理想と違う」とき、人はどうするか? 

一番穏便な手が「泣き寝入りする」というものだ。日本には古来「百姓は耐えるしかないだべ」という思想があるのだと、時代劇などで繰り返し刷り込まれている。

(余談だが、W杯のせいもあって、僕の造語「百姓ジャパン」が詠み人知らずでネット界で勢いよく流通しているようだ。原典はこちらにある→「もうすぐ、日本人の8割が『負け犬』になる日がやってくる」

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若き日々の未熟な「絶望」

しかし「泣き寝入り」できない百姓は、どうすればいいのか? 

ひとつの暫定的な解決法として「夢を見る」ことが挙げられる。たとえば「ロックスターになって、巨大な影響力を手にして『世直し』をするぞ!」というのも、ひとつの「夢」だ。

まあ、なかなか実現はしないのだが、しかし、最低でも一度や二度はこれを「夢見てしまう」者こそが、たんなるロック音楽のリスナーを超えた「ロッカー」たる証明となる。ロックな価値観で生きる人間の証明となる。(ほんの一瞬)僕も夢見たことがある。だから言いきれる。

この「夢」と現実の狭間で、人は苦しむこともある。そこで、ロッカーの悪癖を真似て、ドラッグに走ることもある。前稿のアンソニー・ボーデインは完全にこのパターンだった。若き日のヘロイン中毒について、自らの著書に赤裸々に記している。この時点で「事故死」する人もいる。

第一の波がこれだ。若き日々の未熟な「絶望」、未来への展望のなさが、死を引き寄せる。ときにこれが、若者の自殺にもつながる。

しかし「絶望」は、年を経たロッカーをも自在に襲う。第二の波は「展望」などという曖昧なものではなく、具体的、物理的に将来が「ない」との実感の重さという点で、第一のものよりも「かわす」のがきついのではないか、と僕は考える。そのひとつの例が、16年のキース・エマーソンの自死だ。

エマーソンは、問答無用の「ロックスター」だった。イギリス出身の彼は、ロック・キーボーディストの頂点どころか、「キーボードがロックなのだ」と示した第一人者にして、他者の追随を一切許さぬトップ・プレイヤーとして、70年代、プログレッシヴ・ロックの時代からシーンに君臨していた。

その彼が16年3月11日、サンタモニカの自宅で死んでいるのを発見された。頭部に銃創があり、拳銃による自殺であると判定された。71歳だった。

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