100人に1人が持っている「吃音(どもり)」の謎

歌だとなぜどもらないんだろう?
伊藤 亜紗 プロフィール

実は自分は乗っ取られている?

思えば子供の頃、怖いもの見たさのような感覚で、「ノる」と「乗っ取られる」の境界線をさぐる遊びをしていました。

それは階段を一段抜かしで一気に駆け下りるひとり遊び。最初は「たっ、たっ、たっ」とリズムにノって降りている感覚があるのですが、勢いがついてくると、どこかのタイミングで自分の足が機械のように勝手に動き始めます。「降りる」というより「転がっている」という感覚です。

怖いのだけど、同時に自分の体を手放す気持ち良さもある。まるで「階段ジャンキー」のように、お気に入りの階段にひんぱんに通っていました。

「階段ジャンキー」はハラハラ楽しいが、ブレーキが利かなくなると怖くもなる イラストレーション/三好愛『どもる体』より

そもそも体とは、自分のものでありながら、同時に自分のものでないような存在です。自分の体をコントロールするなどということを、私はできているんだろうか?私はかなりの程度、すでに乗っ取られているのでは?

あらためて見回してみると、ちょっと怖くなるくらい、私たちは乗っ取られているようにも思えます。

何も考えずに毎日駅前の弁当屋でのり弁を買っているけど、自分は果たして本当にこれを食べたいのだろうか?職場の同僚と、いつも同じような会話しかしてないけれど、あれがあの人のすべてなんだろうか?プレゼンのとき、いつもお約束の言い回しで説明しているけれど、本当に心からそう思って言っているんだろうか?

パターンがもたらす安定と、でもそれが引き起こしかねない不自由さ。「ノる」と「乗っ取られる」のあいだで、私たちの生は揺れています。

 

吃音は「ジョジョ」の「スタンド」

最後に、思い通りにならなさを抱えて生きるとはどういうことか、ということについてお話ししておきたいと思います。

体が言葉を拒絶する。体が思ったのと違う動きをする。吃音とともに生きるとは、そんな体のままならなさに、日々連れ戻されることを意味します。当事者たちは、そのこととどう付き合っているのでしょうか。

先日、代官山蔦屋書店にて、情報学者のドミニク・チェンさん、そして予防医学者の石川善樹さんをお招きして、『どもる体』の出版記念トークイベント「どもる体で考える」を開催しました。私を含め三人とも、軽い吃音を抱える同世代の研究者です。

一時間半近く話したあとでたどり着いたのは、「吃音とはスタンドである」という結論でした。スタンドとは、漫画『ジョジョの奇妙な冒険』(荒木飛呂彦)に出てくる、ひとりひとり異なる守護霊のようなもの。その人の無意識の才能が人物や動物の姿をとったもので、そばに立つという意味から「スタンド」と呼ばれています。

スタンドの面白いところは、単なる「分身」ではないこと。確かに本人の能力や過去の経験と関係してはいるのですが、スタンドはそれ自体が強い個性を持っていて、時には本人から独立した人格すら帯びます。

自分のようでいて自分でない存在。その名も『ジョジョ論』という本のなかで、批評家の杉田俊介はこう語っています。「スタンドという概念はつまり、この私(本体)の人格や身体の唯一性を多層化=多重化してしまうのだ」。

吃音もまさに同じなのかもしれません。自分のようでいて自分ではない存在がいつもそこにいて、常に一緒に生きている。思い通りにならないという意味では煩わしくもあるけれど、自分をこえた「あいつ」が、自分一人では到達できないどこかに連れていってくれる。言葉と体の深い世界を冒険できるのは、この吃音というスタンドがいるからなのかもしれません。

ようこそ、「言葉じゃなく肉体が伝わってしまう」世界へ!「なぜしゃべれるのか」「吃音とは何か」を、口内でしゃべるときの動きや舌の位置などのしくみ、そして吃音体験やへのインタビュー取材をもとにまとめた一冊。人体の秘密とともに、どもるという現象を自然に受け取れるようになる一冊だ。   カバー絵と挿画を担当したイラストレーターの三好愛さんのHPはこちら