「コミュ力重視」の若者世代はこうして「野党ぎらい」になっていく

「批判」や「対立」への強い不快感
野口 雅弘 プロフィール

ただ、こうした社会の「要請」は、それにうまく応えられない人に強い負荷を強いることになる。コミュニケーションがいまいちうまくいかないということ自体の問題ではない。むしろ「うまくいっていない自分を他者はどう思っているのかという再帰的な視点」(貴戸理恵『「コミュ障」の社会学』青土社、2018年、12頁)が、「コミュ障」(害)と呼ばれ、あるいは自分をそう感じる人の思考と振舞いを縛ることの方が重要である。

コミュニケーションは相互的なものであるので、「コミュ障」を特定の個人の「自己責任」にすることは、そもそもおかしい。

しかしここで注目したいのは、こうした「コミュ力」が求められる世界の政治的な帰結である。

「コミュ力」と称されるものの測定基準は、コミュニケーションの軋轢、行き違い、齟齬とそれが生み出す気まずい雰囲気を巧妙に避け、会話を円滑に回すことである。逆に、「コミュ障」と呼ばれる人がそう呼ばれるのは、会話がすれ違ったり、お互いの言い分が感情的に対立したりして、それを調整するのに骨が折れるような「面倒臭い」事態を招くからである。

もしコミュニケーションの理想がこうしたものになりつつあるとすれば、ここに「野党」的なものの存在の余地はほとんどまったくない。

野党がその性質上行わざるをえない、いま流れているスムーズな「空気」を相対化したり、それに疑問を呈したり、あるいはそれをひっくり返したりする振舞いは、「コミュ力」のユートピアでは「コミュ障」とされてしまいかねない。

「コミュ障」と呼ばれないためには、極力「野党」的な振舞いをしないように気をつけなければならないということになる。

 

「抵抗」の思想家を毛嫌いする

「コミュ力」信仰が「野党ぎらい」を助長する――これまで述べてきた仮説を肌身で感じることがある。

私の担当科目「現代政治理論」で扱ったテーマのなかで、今年ダントツで評判が悪かったのが、藤田省三だった。丸山眞男のもとで学び、高度経済成長による日本社会の変容と批判的に対峙した思想家である。

講義では「離脱の精神――戦後精神の一断章」(1978年、『精神史的考察』所収)を紹介したが、「抵抗」なきデモクラシーは「翼賛」になりかねない、と主張する藤田に、共鳴する学生はほとんどいなかった

最後に学生に書いてもらったオピニオン・シートには、藤田に対する違和感と嫌悪の言葉が並んでいた。「たんなる老害」というコメントすらあった。

「公的なもの」の喪失を危惧するハンナ・アーレントの評判は決して悪くない。しかし、彼女とともに「全体主義」について考え、経済的な豊かさという「安楽」にすら「隷従状態」を見た思想家は、いまどき受け入れがたいらしい。

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