席亭・平野悠がいま明かす「新宿ロフト・誕生秘話」

後編・それでも人生は続く
細田 昌志 プロフィール

サハラ砂漠で死にかけた

平野 まあ、しかしこの一連の出来事で、ほとほとロックに嫌気が差して、すべてを投げ出したくなったのは事実。

だって世界に眼を向けたら、独裁国家ソ連が崩壊しそうで、東欧諸国や第三国も次々に独立の機運が起きて世界は激動していた。ソ連も徐々に自由化の波が押し寄せて来て、そんなときに俺は狭い東京で一体何をやってるんだと。

──かつての学生運動の闘士からすれば何もかも嫌になる気持ちは、なんとなく理解できます。

平野 日本を捨てて、海外に出ようと思ったわけ。どこででも食っていく自信があったし、生き馬の目を抜く東京でこれだけやったんだっていう自信もあったから、とにかく日本脱出を考えたんだよ。そんなこんなで新宿ロフトだけ手許に残して、あとはそれぞれの店長に暖簾分けして譲り渡した。

──なんでも聞くところによると荻窪ロフトのあった場所は、今はピンサロになっているそうですね(笑)。ともかく、それで世界放浪に出るわけですね。それが1984年の10月です。なんでも飛行機を使わない旅をしたかったとか。

平野 そうそう。横浜港からまずウラジオストク。そしてシベリア鉄道に乗ってモスクワ、そして東欧に行くと。

 

──いかにも元左翼的コースですね(笑)。「カントリー・ハンター」っていって、国を制覇する旅を目指していたそうですが、それはどういうものでしょう?

平野 「フランク・ハンター」ともいうんだけど。バックパッカーが結構流行っていたから、「その国で2泊する」っていうのがルール。それで東南アジアに半年居たり、各地で働いたりとか4年ほど本当に世界中を放浪したの。それで100近い国に入った。現地でも働いたんだよ。日本語の先生やったりフルーツ売ったり、楽しいんだ。

──貴重な経験ですよね。

平野 本当にそう思う。でも、まだなんか物足りないんだ。ちょうどその頃、世界を回るパッカーにとって一番難しいといわれたのが「サハラコース」ってやつで、サハラ砂漠を横断する過酷なやつだって聞いて、「これをやらないとパッカー人生やめられない。でもこれをやりきって終わろう」と痛切に思ったんだ。

──真似したくないですねえ。

平野 サハラコースの何が難しいか。とにかく道がないんだから。例えば一晩砂が吹き荒れたら道がなくなっちゃうんだから。そしたらとにかく寝袋の中にいて風がおさまるのを待つしかないという。

──きっついですね!

平野 しかも、そんな最中マラリアにかかっちゃって。

──えー!

平野 マラリアを抱えながらの旅だよ。そのときはアルジェリアとかから商隊が出ていて、それに金払って荷台に乗っけてもらうわけ。2週間くらい。でも寝るときは砂の中で寝袋なんだけどね。きつかった。今なら何百万積まれてもやらない(笑)。

──そりゃそうでしょう。

平野 結局、エチオピアの病院に入院したけど、41度とか熱が出るのよ。挙句にキンタマが異常に膨れ上がってさ(笑)。「死ぬかも」って言われたんだから。でもね、そのとき、凄く楽だったの。そして幸せだったの。「俺は誰の命令でもなんでもなくて、自分の意志でここまで旅してきた」って思うと凄く安らかだった。「ここで死んでもいいや」っていう気分になれたのよ。

──なるほど、「革命的敗北主義」がここで甦ってきたわけですね(笑)。