「ライブハウスを創った男」ロフト席亭・平野悠の長い回想

前編・ロフトができるまで
細田 昌志 プロフィール

内田裕也との関係

──ところで先に話が出ましたが、1976年9月にはついに新宿ロフトをオープンさせますね。それまでの小さなハコではなくて、300人収容のでかいハコ。ある意味「城」を造ったという感じなんですが。

平野 まあ、ロックの集大成という感じだよね。西荻、荻窪、下北と来たわけだから、「ここで新宿に攻め込むぞ」という意識は常にあった。日本最大のターミナル新宿が最終地点というかね。

──旅順攻略みたいなもんですね。203高地というか。

平野 相当無理はしたんだよ。当時の日本で一番でかいスピーカー置いたりとか、店内もきっちりと備えたし。300人も入るハコって当時はどこにもなかったからさ。新宿ではその後パワステ(日清パワーステーション。現在は閉鎖)ができるまではウチの天下だった。

前夜祭なんか来生たかおから始まって、そこからオープニングの1週間が金子マリ、桑名正博、サディスティックス(ミカバンド解散後に高橋幸宏・高中正義・今井裕・後藤次利で活動したグループ)、吉田美奈子に矢野顕子、大貫妙子、りりィ、そのバックに坂本龍一と伊藤銀次、そして山崎ハコと今では考えられないメンツ。

 

──いやはや、もうフェスですよね、これは。

平野 西荻ロフトからの付き合いの人も多いんだけどね。

──そこでお聞きしたいのは、内田裕也さんとはどういう付き合いをしていたかってことなんです。これより以前から裕也さんは、「ロックンロールカーニバル」とか「郡山ワンステップフェス」なんかをプロデュースしたりとか、平野さんの歩みとは別にいち早く日本のロックの定着に貢献した人だとは思うんですが。

平野 それは確かにそうなんだ。凄い人です。だからこの年の暮れに裕也さんとハルヲフォン(近田春夫の率いたグループ)に出てもらってるんだけどね。「おう、お前が平野か」「はいっ」なんて直立不動で(笑)。

──それまで接点がなかったというのは、やっぱり平野さんが、はっぴいえんどからロックに傾倒していったのと無縁ではないんですか?

平野 やっぱりそれはあるね。裕也さんと松本隆の「日本語ロック論争」のときも松本隆側で見ていたし。ただ、裕也さんの言うこともわかるんだよ。「ロックは英語で歌わないと世界に通用しない。日本のロックは世界を目指す」という意見。わかるけど、僕ははっぴーえんどと出会って「日本語で歌うロックだってあっていいだろう」って思ったから。

──裕也さんはもともとナベプロにいた方ですからね。「THE芸能界」も知っている上でのアウトサイダーというか。

平野 この時代、裕也さん系とはっぴいえんど系があってあまり仲が良くなかった。もちろん、竹田和夫、四人囃子、サディスティックスとか、どっちかというと「裕也さん系」に属するミュージシャンも大勢出てもらってるんだけど、ロフトはティンパン寄りだったことは確か。

──その後、新宿ロフトを拠点とするミュージシャンが次々と現れます。平野さんが新宿に攻めこんでロフトを作ったように、地方から出て来た彼らにとって新宿ロフトこそが攻め込む場所になったように見受けられますね。

平野 80年代に入るちょっと前、山下達郎さんやYMOとかのニューミュージックのシーンが終わってライブハウスはニューウエイブとパンクの時代に入るわけ。

ARB(俳優としても活躍する石橋凌を中心とするバンド)、ルースターズ(大江慎也をリーダーとする博多系“めんたいバンド”の代表的存在)、アナーキー(仲野茂を中心とした80年代の代表的パンクバンド)、ロッカーズ(俳優の陣内孝則が在籍しためんたいバンド一方の雄)の4バンドが新宿ロフトの柱になった……あと面白かったのはテクノやヘビメタとかが出て来たこと。

──あとパンクバンドにもその舞台を提供しました。

平野 スターリンとかね。INUとか、原爆オナニーズ、あと、じゃがたら(笑)。

──江戸アケミですね!なんでも、ロフトのレジから金をパクって逃走する事件があったとか(笑)。

平野 今にして思うとやってることは最高に面白いよね。不良バンドはなんともいい音を出すんだよ。みんなあの当時は相当無茶苦茶やっててさ、江戸アケミは死んじゃったけど、みんな今も頑張ってるのがすげえよなあって思う。今も生き残っているパンクバンドは本物が多いってこと。

──INUの町田町蔵なんて今や芥川賞作家ですからね。ところで地方出のバンドで新宿ロフトといえば、やっぱりBOØWYは避けては通れないかなって気もするんですが。

平野 ああ……その話する?

(明日公開予定の後篇につづく)