「ライブハウスを創った男」ロフト席亭・平野悠の長い回想

前編・ロフトができるまで
細田 昌志 プロフィール

平野 坂本さんも二木さんも生江さんも現役の学生運動をやっていて、その手の客も増えてきててさ。僕が全共闘の話をすると、高校生の社研(社会研究会)の男の子とか食いついてくるの。「じゃあ、なんかやろうか」ってことで政治討論会みたいなことをやったり、そういうリベラルな客も増えていったね。

──左翼運動がようやく商業ベースに乗ったわけですね(笑)。

平野 そういう面を見せると若い子とか「凄い」って幻想持つんだよね。「悠さんはパクられたことがあるんだ~、凄い!」って。これって結構重要なこと。幻想ってコミュニケーションの次に大事なことかも。「この人は何かあるのかもしれない」って思わせるわけだから。

──そんな烏山ロフトですが、ライブハウスではないわけですよね。どういういきさつでライブハウス経営に討って出ることになったんでしょう?

平野 きっかけは客が同情して持ってきたレコードだった。それまでフォークもロックも全然詳しくなかったけど、高田渡とかピンクフロイドとかレッド・ツェッペリンに出会えたんだ。

一番ぶっ飛んだのが、日本語ロックのはっぴいえんど(松本隆、鈴木茂、大瀧詠一、細野晴臣が在籍した黎明期のロックバンド)。サウンドもいいし、フレーズも最高だし、「なんだよ、結構日本語ロックって面白いな。でも、どこに行けば生で聴けるんだろう」って思ったのが最初。でもそんな場所は日本ではほとんど皆無だった。

それで「よし、じゃあ作っちまうか」ってことでライブの出来る店を出そうと思った。マイクスタンドの立て方も知らないのに(苦笑)。ロック好きの常連客が手伝ってくれたから出来たわけ。

──烏山が繁盛していたのも大きいですね。

平野 そうですね。若干お金もできて、銀行もお金を貸してくれて、「さあ二軒目はどこにしようか」ってことで。当時は「中央線文化圏」って言葉があって、中央線沿線にあらゆるカルチャーが集中していたから、吉祥寺に出したいなあって思ったんだけど、今も昔も吉祥寺は土地が高い。だからその隣の西荻に作ったんだ。

 

防音対策をしてなかった(笑)

──それが、初のライブハウスとなる1973年6月4日オープンの「西荻ロフト」ですね。

平野 まあ、この当時ライブハウスという名もなくって、京都に一軒「拾得」っていう小屋があったきりだった。

──そうなんですか?

平野 西荻ロフトは雑居スーパーの一角で隣は八百屋で向かいには魚屋。テーブルとか椅子なんか小学校から貰って来たものだったし。まあ、よくやったよね。

──しかし、そこで山下洋輔トリオとか出演していたわけですもんね。

平野 新しく台頭してきた音楽があっても、ミュージシャンは演奏する場所が少なく飢えていたんだ。だから山下さんとは開店以来の長い付き合いではあるんだけど、基本的にはロック中心なスケジュールだった。他にもシュガーベイブやティンパアーレの面々や頭脳警察、桑名正博、高田渡、友部正人、遠藤賢司、吉田美奈子、鈴木茂、南佳孝、伊藤銀次……。

──凄いメンバーですよね。

平野 みんな演奏する場所ができたというので喜んでくれた。ギャラとか控え室とかそんなの関係なかったな。つい先日亡くなった森田童子も西荻からで……。

でもいかんせん手作りで防音とか全然やってないもんだからさ、ライブハウスとしての体を成してないの。一番は騒音。山下洋輔トリオのライブの最中に魚屋のおやじが「うるせー」っつって包丁持って怒鳴り込んで来てよ(笑)。

──今なら即逮捕ですよ!

平野 そしたら「おっちゃん、もう少し我慢して」なんて山下洋輔さんがステージから言ってくれて(笑)。そんなこんなあって、近所への騒音の問題から「爆音系はもうここではやれないな」ってことで勢いで作ったのが荻窪ロフト。それほど急いで出さないと、次から次に新しいバンドなんか出てきて新しいシーンについて行けないと思ったからさ。

──翌74年の秋ですね。とういうことは防音もばっちり?

平野 だから地下物件を探したんだ(笑)。そのかいあって荻窪ロフトは本格的なロックのライブハウスと呼ばれたんだ。音が良く評判は良かったし、ここから日本のロック文化が芽生えたって実感はあったね。

全国に次から次に新しいミュージシャンが現れ始めた。当時はまだ「屋根裏」(渋谷にあったライブハウス)も「JIROKICHI」(高円寺にあったライブハウス)もない頃だから。

──あのユーミンがふらっと出るわけですからね。

平野 みんな当時はまだアマチュアか新人たったね。だからユーミンや矢野顕子が出たからってウチの経営が楽になったわけじゃなかった。山下達郎さんが「ロフトの平野はロックで食ってないと言い張ってた」って本に書いてんだけど、実際にそうなんだもの。

──どういう業態で経営していたんですか?

平野 ライブは基本的に週末と祭日だけ。でも、ライブをやる日も毎日正午から夕方5時までがロック喫茶で、夕方5時から夜10時まではリハーサルとライブ。で、それが終わって朝4時まではロック居酒屋というスケジュールだった。

本当にライブはいつだって赤字で、お客より出演者が多い日がたくさんあったからね。でも、逆に当時はロック居酒屋で店の運営をするということを徹底させたから生き残れたんだと思ってる。ライブだけの収入ではとてもやって行けなかったもの。もちろんノルマなんて考えられなかった。もちろん毎日のスケジュールを埋めるだけのミュージシャンもいなかったし。

──あー、なるほど。

平野 あと「入場した客人数でギャラが決まる」っていうチャージバック制って、おそらくだけど、日本で僕が始めたシステムだと思う。当時は固定ギャラ制が普通だったけど、そうなると店はやっていけなかった。

それで思いついたのがチャージバック。それくらいライブは儲からないもの。でもライブは赤字でもやりたいという使命感。そしてライブのおかげで店は有名になってゆく。ロック居酒屋は流行ってゆく……そんな流れかな。

──必要に迫られてのことだったんですね。