格差社会でいるくらいなら、日本は「階級社会」を目指した方がいい

競争を「煽られない」社会へ
河野 真太郎 プロフィール

格差社会のテーマは「落ちこぼれない」こと

日本的新自由主義が総中流社会への批判からいかに生じてきたかについては、渋谷望『ミドルクラスを問いなおす──格差社会の盲点』(NHK出版生活人新書)に詳しい。

その議論を自由に言いかえると、「格差社会」という言葉が表現する社会のイメージは、「総中流社会」のイメージ(の否定)から生じてきているということである。つまり、「格差」とは、戦後の日本を覆ってきた「私たちはみんなだいたい同じくらいの暮らしをしている」という総中流的なイメージを下敷きにしており、そのひとまとまりの社会の中に生じた亀裂を指しているのだ

言いかえれば、「格差社会」で問題になっているのは、中流(ミドルクラス)の内部での競争と、その結果の勝ち組と負け組の分断なのである。あえて言えば貧困そのものが第一の問題となっているわけではない。むしろ、本当の貧困はそのような社会のイメージから排除される。

「格差社会」という言葉は、競争的な社会において、中流から脱落することを恐れる中流に向けられた言葉なのである。中流は格差社会での負け組にならないために、余暇もすべて返上し働きづめに働いて、あまつさえ互いの足をひっぱりあうことが求められる。

このような「格差社会」がたどり着くのはどのような社会だろうか?

自由競争を金科玉条とする新自由主義は一種のメリトクラシー(実力主義社会)であり、それは専門用語で言うと「社会的流動性」、つまり努力と実力による階級移動の可能性を保証するものであった。

ところが、現在の「格差社会」は階級を固定化する方向に向かっている。勝ち組はいつまでも勝ち続け、負け組は一度負けたら這い上がれないような社会が生まれつつある。

 

格差社会では、「公平な競争」が姿を消す

貧困家庭に生まれた子供は、公教育以外のところで中流以上の子供とは決定的に異なる「文化」の中に育ち、努力をして勉強をし、一世代の間に中流へと階級上昇するようことが、そもそも想像力の及ばない事態となる。

上記の『新・日本の階級社会』はそのような社会を「階級社会」と呼んでいる。問題の多い「悪しき階級社会」である。

そのような社会は、新自由主義が建前とする公平な自由競争の社会とはかけ離れたものだ。個人は、そもそものスタート地点においてハンデを負わされる(もしくはアドバンテージを与えられる)。逆説的にも、新自由主義が広まるにつれて、「公平な条件での競争」は姿を消していくのである。

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それでも勝ち組は、自分たちは公平な競争に勝ったのだと主張するだろう。その裏側で、彼らは実は生まれ持った有利な条件(上記の意味での階級)や、そこから生じるコネに頼って勝っている。

最近、政治に関連して、ネポティズム、もしくはクローニズムという言葉を聞いたことがあるかもしれない。いずれも縁故主義と訳せる言葉であるが、公平な自由競争社会であるはずの新自由主義社会でこれらの縁故主義がはびこることは一種の必然なのである。勝ち組とは、有利な縁故を持つ人間なのだ。

そのような事実が明らかになるにつれて生じるであろうと予想されるのは、しばしば社会主義的な国家で生じたとされるモラルハザードである。

縁故主義がはびこり、階級が固定化されたとき、人びとは努力をやめてしまうのだ。そしてやがて、社会全体の活力が失われてしまう。