死刑執行…信者と面接して見えた「オウム事件」もう一つの現実

なぜ人々は信者と化したのか?
原田 隆之 プロフィール

解決策はあるのか

ナチスの話は遠い昔のことだし、オウムの首謀者たちも死刑になって、既に事件は一件落着したかのように忘却されつつある。しかし、これらを過去のものとしてはいけない。

ナチスにノスタルジアを抱くネオナチは増殖しているし、オウム真理教も名を変えて若者をカルトに勧誘し続けており、それに惹かれる人々がいることも事実である。

私が林や高橋の手記を読むなかで、印象づけられたのは、先述のように彼らが「人生の意味」という呪文に縛りつけられていたことである。私は少しシニカルに「人生に意味がなくてはいけないのか」「誰かの役に立たなければいけないのか」という思いをもって彼らの手記を読んだ。

しかし、こうした呪文は現代の日本において、家庭や学校で、子どもたちに繰り返し教育され、求められていることでもある。

誰もが、知らず知らずのうちに、それを刷り込まれ、自分の人生に意味を見出し、世の中に役立つ生き方をしなければならないと思い込まされている。

そして、それに失敗していると感じた子どもは、無力感、罪悪感、劣等感を抱き、人生の意味を教えてくれる「権威」にすがろうとする。それはカルトであったり、国家であったり、民族であったりする。

最近、若者世代の右傾化が指摘されることが多いが、そこにも同様の心理的背景が読み取れる。

 

まずは、このような価値観を疑って、教育を見直し、自分自身を一人の人間としてありのままに受け止め、ありのままに愛することを教えるのが先決だろう。それはまた、自分以外の人々もありのままに尊重し、愛する態度にもつながるはずである。

再びフロムを引くと、彼が『自由からの逃走』の後に著した『人間における自由』4のなかで、重要なことは自分自身を呼び戻す「良心」であると述べ、社会において、あるいは心理学において重要な課題は倫理の問題であることを強調している。

フロムはまた、倫理または良心には、「権威主義的倫理」と「人道主義的倫理」があり、両者は似て非なるものだと述べる。

「権威主義的倫理」とは、宗教、国家、権威者、世論などの外的権威を内面化したもので、人々はその掟に服従し、その掟を守ることが善となる。

それは権威への不服従の罰や恐怖と背中合わせの倫理であり、またそれに従わない者たちへの蔑視や攻撃を伴う。

ネトウヨと呼ばれる人々のネット上での振る舞いは典型的な例である。

一方、人道主義的倫理は、人間や自分自身への肯定と尊厳に基づいたものであり、フロムの言葉を借りれば「われわれ自身に対するわれわれの愛に満ちた配慮の声」である。

少し長くなるが、彼の言葉を引用すると、以下のようになる。

人間は人間同士の関係と団結によってのみその目的を達成し、幸福を掴むことができるというのが人間性の一つの特性なのである。しかしながら、隣人を愛するということは人間を超越した現象ではない。それは彼の内なる何かであり、彼から発する何かなのである。愛とは、もともと人間より高次の力で、それが人間に下ってくるのだ、といったものではないし、また人間に課せられた義務なのでもない。それは人間自身の力であり、それによって彼は世界と関係をもち、世界を真に自己のものとするのである。