死刑執行…信者と面接して見えた「オウム事件」もう一つの現実

なぜ人々は信者と化したのか?
原田 隆之 プロフィール

信者の告白

林郁夫1は、慶応大学を卒業し心臓外科医として生きていくなかで、救えなかった多くの患者たちの姿を見て、「『死』については、なにもわかっていない」という思いに直面する。

そして「現代の科学が避けていたり、あるいはただ考えていても解けないような問題を解決してくれる法則があるはずだ、それを追求したい」という「人生のテーマ」を抱いて、オウム真理教に入信することとなる。

彼は、地下鉄サリン事件では、実行犯の1人として実際に地下鉄の中でサリンを撒くのだが、彼の全面自供によって事件の解明が進んだことなどが考慮され、死刑ではなく無期懲役となった。

 

また、高橋英俊2は信州大学の大学院で天文学を修め、わが国を代表する天文台で研究者として仕事をするなかで、オウム真理教に入信する。

彼は、手記のなかで「この時代のこの場所に、なぜ自分は存在しているのか。それが僕の知りたいところだった」「僕が『ここにいる』ということにどんな意味があるのか。どう考えてもその答えは見つからない。だが『意味がない』ということが答えだとすると、僕には耐え難いことだった」と述べ、こうした問いへの答えを見つけることが入信に至る大きな動機であったと述べている。

いずれにも共通しているのは、自分の日常や人生に対する疑問を抱き、答えの見つからない苦しさ、不安から逃れることが1つの動機となっていたことだ。

そして、自分で苦しみながら、自らの人生のなかで答えを掴み取ろうとするのではなく、教団に答えを求めたのである。

また、高橋は「自らの存在の意味を問うことなく忘れたまま生きつづけているのが、僕をふくめた多くの人びとの姿ではないのか。ある刺激を与えられると反応する微生物。人間もそれと変わらないのではないかと思った」と告白している。

つまり、教団の人々は、真摯に人生の意味を求道しているのに対し、それ以外の人々は、何も考えていないミジンコ程度の存在だという考えを持つに至る。

これらの手記は、エーリッヒ・フロム3が、ナチスドイツとそれを熱狂的に支持した当時のドイツ国民の心理を分析した内容を彷彿とさせるものがある。

フロムは、近代以降、宗教や国家が力を失い、その束縛から「自由」になった人々が「かつての安定感と帰属感とを与えていた絆から解放」された途端、「世界は際限のないものとなり、同時に恐怖にみちたものとなる。(中略)その結果、自分自身についての、また生活の目標についての疑惑がふりかかってくる」と分析した。

そして皮肉であるが、ドイツの人々は、「自由」に伴う恐怖や不安に耐えられず、そこからの「逃走」を図った挙句、ナチスに服従して束縛されることを求めたのである。

林が求めた「人生のテーマ」も、高橋の求めた「存在の意味」も、宗教や国家などの権威から自由になった現代の人々が直面せざるを得ない問いであり、同時に恐怖でもある。

それに耐えられず、「自由からの逃走」の結果、かつてのドイツ国民がナチスの支配する国家に束縛されることを選んだのと同じように、オウム信者たちはオウムという宗教(カルト)に束縛されることを選んだ。

このように、オウム教団は、心理学的な意味でナチスドイツの相似形だと言える。

つまり、彼らが選んだのは、自分で主体的に答えを見つけるという道ではなく、権威に服従して、答えをもらうことだったにすぎない。

そして、ナチスがユダヤ人を迫害したように、オウムも一般の人々を「自らの存在の意味を問うことなく忘れたまま生きつづけている」「微生物」のような人々だと見下し、「救済」の美名の下に殺害していった。