『本日の高座 演芸写真家が見つめる現在と未来』より 撮影/橘蓮二

追悼・桂歌丸師匠「軽やかな落語家」はここがすごかった

サラリと、軽く、でも強い

2018年7月2日に81歳で旅立った、桂歌丸師匠。演芸写真家として20年落語家を撮り続け、著書『本日の高座』でも歌丸師匠の復帰後初の高座を切り取っている橘蓮二さんの写真と共に、落語を愛する堀井さんの追悼文をお届けする。

演芸写真家・橘蓮二氏による『本日の高座』より。退院後の高座にて

テッパンネタは、もう聞けない

新宿あたりの寄席でよく聞いたネタがある。

ぼんやりと座っていると、ぼんやりした雰囲気で落語家が出てきて「じつは、さきほど、今日の午後12時10分のことでした、桂歌丸師匠が、静かにご自宅で……」ここでちょっと息を切って間をとる。ときに客席から、「えっ」という声が漏れてくる。

「昼食をお召し上がりになりました」

そう続ける。だいたい受ける。すごく受けることもある。いわゆるテッパンのネタである。

ここ数年で何度も聞いた。

桂歌丸師匠逝去の報を聞いたとき、新宿末廣亭へ行きたくなったが、いや、行ったところでそういうトークをする人はもういないのだと気づき、やめた。

落語家たちは、自分たちの仲間の死を陽気に語りあうことが多いのだが、そこには不謹慎な気配はなく、から元気と不思議な陽気さと、そして底に強い喪失感を漂わせている。芸人でないものが、そういう場にいて、芸人の根性も持たぬくせにそういう空気に流されていても、自分のためによろしくないのだ。

歌丸師匠がさきほどご自宅で、静かに昼食をお召し上がりになりました、というギャグがもう聞けなくなるというのはとてもさびしい。

桂歌丸はテレビに出演しているタレントとして、ほかの落語家たちとは違うポジションにあった。テレビに何十年も出続けていると、地方での認知が違う。地方での落語会で客が呼べる落語家というのは、やはり扱いが違う。実入りも違う。芸人は売れないと意味がない。桂歌丸はとても売れた落語家である。

 

落語の力で客を黙らせる

何度か歌丸の独演会にも行ったが、客層がふつうの落語ファンとはかなり違っていた。

場所にもよるが、落語を見に来ているというよりは「テレビに出てる人を見に来た」という客層が多く、かなりざわついていた。笑点メンバーならではの落語会の雰囲気である。

もう十数年前になるが、歌丸が高座に出てくると写真を撮る人がいた。フラッシュをたいて、ばっと一瞬明るくして撮るのである。ふつうの落語会ではあり得ない。鈴本演芸場で酔っ払いがやっているのを一度見たことあるが、すぐにつまみ出されていた。

そして、一人が撮ると、まわりの人は注意するわけではなく、「あ、撮っていいんだ」と判断したようで(どういうルールで生きている人たちなのかとかなり驚いたが)、次々と写真を撮り、ばっ、ばっばっとフラッシュが点滅した。さすがに歌丸自身が、やめてくれと制止したのであるが、そういう落語会もあった。

注意したあと妙にざわついていたが、しかし歌丸は、そういう客に媚びるわけでもなく、怒りだすわけでもなく、落語の力で黙らせていった。

落語におもいっきり力を入れることによって、ある意味、腕力で黙らせていった。この、がやがやした雰囲気の客を、その気ひとつで抑えたのを見たときから、あ、この人はやっぱり並の落語家ではないな、と見直した。

寄席や落語会に通って、落語を熱心に聞いている人たちは、どうしてもテレビで売れているタレント的落語家を意味なく毛嫌いする傾向がある。まあ、わからなくもない。いま紹介したような落語会の雰囲気は(次々と自由に写真を撮る落語会は)落語好きには耐えられない。そういう客を呼び寄せてしまうタレント落語家も、ついつい敬遠しまう。

気持ちはわかるが、それはそれでちょっと片意地すぎるとおもう。

『本日の高座』より 撮影/橘蓮二