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有名人OB・OGが語る「わが不滅の早稲田愛」

気持ちはわかるが、ちょっと心配

権力に媚びない気風

「私は富山の田舎にいるころから、女優になりたかったんです。具体的にどうしたらいいかなんて見当もつきませんでしたが『早稲田に行けばなんとかなる!』と思っていました。

父が早稲田の仏文卒だったこともあるのですが、演劇、映画、音楽など文化的な活動を志す人が多いことは知っていましたから」

こう語るのは、早稲田大学社会科学部出身で、女優・エッセイストとして活躍する室井滋氏だ。

室井氏は'70年代後半、早大に入学後、さっそく「シネマ研究会」や演劇サークルに入会。そこでまず早稲田の洗礼を受けたという。

「いったい何歳なのかわからないオジサンが山のようにいるのには驚きました(笑)。7~8年生は当たり前。経歴が謎でやたら人生経験のある学生や、中退しているのに早稲田で芝居を続けている人もかなりいました。

初めこそカルチャーショックを受けましたが、そういうオヤジっぽい先輩方の文学や演劇に対する見識の深さは、何も知らない田舎者の私にはカッコよく映りました」

現在は早稲田松竹だけになってしまったが、当時は高田馬場パール座やACTミニ・シアターなど、安い映画館が早稲田の界隈にいくつもあった。

「しょっちゅう通っていると、知らない人とも顔なじみになってくるんですよね。たまたま隣になった人と話が弾んで、途中で映画館を出て飲みに行くこともありました。妙な親近感が生まれてくる、不思議な空間でした」

室井氏にとって早大を中心とした早稲田の町は「家」のような感覚だった。早稲田に帰ってくればだれかがいるという安心感があったという。

「おカネがなくても、なんとかなるもんなんです。安部球場('87年に東伏見に移転)の周りに住んでいる友達が多かったので、困ったらだれかの家に行けばご飯を食べさせてもらえるし、先輩や知り合いの大人に御馳走になることもあった。

携帯もインターネットもありませんでしたから、当時は人と人との付き合いがアナログで、仲間たちとの結びつきも強かったと思います」

政治学の萩野(浩基)ゼミに所属。大人になっても皆で旅行に行くほど仲が良かった。

「先生とはざっくばらんに政治の話をしていました。ただの芝居バカにならずに済んだのも、多様性を重んじる早稲田のおかげのような気がしています」

 

室井氏と同じく、大学時代は芝居に打ち込んだという演出家で作家の鴻上尚史氏(59歳)。鴻上氏は法学部OBである。

「私が早稲田を選んだ理由は『在野の精神』というか、バンカラで反体制のイメージが自分に合っていると思ったからです。東大へ行って官僚になるより、外から世の中を変えていければと思っていた。当時('70~'80年代)の早稲田は私にとって魅力的でした。

バンカラとは権力に媚びないこと。校内に並んでいる立て看板も昔はもっと自由で、芝居のチラシも張り放題でした。『まだ見ぬ文化を自分たちで作るんだ』という気質があった」(鴻上氏)

だが、時代は流れ、早稲田の雰囲気も変わった。

「私がいまの子たちと接して感じるのは『そんなことしていいんですか?』と、聞き返す学生がすごく増えたこと。決まった枠組み内では頑張るけど、物事を疑うことや枠を飛び越えて新しいことをやろうとする学生が減っている気がします。

私も早大時代は演劇ばかりで、ほとんど授業にも出ませんでしたが、学業以外で頑張る学生を認めてくれる空気があった。贅沢な放任というか、自由であってこそ早稲田だと思うんです。

いまさら慶應と同じように都会的でオシャレな校風を目指しても、慶應には勝てませんよ」(鴻上氏)

結果、他大学と差別化ができず、明治に追い上げられているのが早稲田の現状だ。